ルートヴィッヒ・デ・クードル
ルートヴィッヒ・デ・クードル Ludwig Des Coudres | |
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生誕 |
1820年5月10日 ドイツ連邦 ヘッセン選帝侯国 カッセル |
死没 |
1878年12月23日 ドイツ帝国 バーデン大公国 カールスルーエ |
ルートヴィッヒ・デ・クードル(Ludwig „Louis“ Des Coudres、1820年5月10日 - 1878年12月23日)はドイツの画家である。歴史画や肖像画を描いた。カールスルーエのバーデン大公国美術学校の教授を務めた。
略歴
[編集]ヘッセン州のカッセルで生まれた。生家はスイスを出自とする家系で、父親は織物工場の3代目のオーナーであったが、ルートヴィッヒが2歳の時に亡くなった。家族の友人で、カールスルーエの美術学校の校長、ルートヴィッヒ・フンメル(Ludwig Hummel (1770-1840)の影響で絵を描き始めた。
1836年から専門学校で建築を学び始め、翌年、美術学校でルートヴィッヒ・グリムのもとで学び始めたが、その教育には不満で、友人2人と学校をやめてスタジオを開いた後、1839年にミュンヘンに移り、ミュンヘン美術院でユリウス・シュノル・フォン・カロルスフェルトに学んだ。1843年にはローマを訪れ、ローマで修行していたヨハン・ヴィルヘルム・シルマーと親しくなった。シルマーの勧めで、デュッセルドルフ美術アカデミーに学び、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シャドーやカール・フェルディナンド・ゾーンの指導を受け、肖像画を描くようになった。
1854年に後にバーデン大公国の大公になるフリードリヒ1世によってカールスルーエに新たに美術学校が創設され、シルマーが初代の校長になると、シルマーの推薦で1855年に教授に任じられた。教師として有能で、教えた学生にはハンス・トーマやルドルフ・エップらがいた。1858年に結婚し、風景画家となるアドルフ・デ・クードル(Adolf Des Coudres1862-1924)が生まれた。1863年にシルマーが亡くなると美術学校の運営を引き継いだが、翌年氷の上での転倒事故によって深刻な負傷を負って、活動を阻害されることになった。
作品
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オスヴァルト・アッヒェンバッハ (1847)
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マグダラのマリア (1852)
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母子像 (1865)
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娘の肖像(1877)
参考文献
[編集]- Allgemeine Deutsche Biographie, 47. Bd. 1903
- Badische Biographien, 3. Teil, 1881
- Jos. Aug. Beringer: Bad. Malerei im 19. Jahrhundert, 1913
- Friedrich von Boetticher: Malerwerke des 19. Jahrhunderts, Bd. 1, 1891
- Ludwig Des Coudres: Denkschrift betreffend die Beurteilung einiger Stellen des Entwurfs eines für sämtliche Bundesstaaten gemeinsamen Gesetzes zum Schutze des Urheberrechtes an Werken der Literatur und Kunst gegen Nachdruck, sowie gegen unbefugte Nachbildung und Aufführung. Weimar 1864
- Düsseldorfer Künstler-Album. Arnz & Comp. Beiträge in Bd. 1–4 (1851–1854).
- Ludwig Emil Grimm: Erinnerungen aus meinem Leben. Hrsg. Und ergänzt von Adolf Stoll. 1913
- Adolf v. Oechelhaeusen: Geschichte der Großh. Badischen Akademie der bildenden Künste. Festschrift 1904
- Seubert: Allgem. Künstlerlexikon, Bd. 1
- Thieme-Becker: Künstlerlexikon, Bd. 9, 1913
- Museumsführer Neue Galerie Kassel, Ausgabe August 1986, Autoren Marianne Heinz und Angelika Burger