ルートヴィヒ・フリードリヒ (ヴュルテンベルク=メンペルガルト公)
ルートヴィヒ・フリードリヒ Ludwig Friedrich | |
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ヴュルテンベルク=メンペルガルト公 | |
在位 | 1617年 - 1631年 |
出生 |
1586年1月29日 モンベリアル |
死去 |
1631年1月26日(44歳没) モンベリアル |
配偶者 | エリーザベト・マグダレーナ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット |
アンナ・エレオノーレ・フォン・ナッサウ=グライブルク | |
子女 |
クリストフ ヘンリエッテ・ルイーゼ レオポルト・フリードリヒ ゲオルク ハインリヒ ゲオルギーア・ルイーゼ |
家名 | ヴュルテンベルク=メンペルガルト家 |
父親 | ヴュルテンベルク公フリードリヒ1世 |
母親 | ジビュラ・フォン・アンハルト |
ルートヴィヒ・フリードリヒ(Herzog Ludwig Friedrich von Württemberg-Mömpelgard, 1586年1月29日 - 1631年1月26日)は、ヴュルテンベルク=メンペルガルト公(在位:1617年 - 1631年)。ヴュルテンベルク公爵家の分枝である新メンペルガルト(モンベリアル)家(Jüngere Linie Württemberg-Mömpelgard)の始祖。
生涯
[編集]ヴュルテンベルク公フリードリヒ1世とその妻でアンハルト侯ヨアヒム・エルンストの娘であるジビュラの間の第5子、三男として、モンベリアル城(Château de Montbéliard)で生まれた。1617年5月28日、ルートヴィヒは他の弟たちとともに、長兄ヨハン・フリードリヒとの間に相続協定を結んだ。ルートヴィヒはヴュルテンベルク家領のうちモンベリアル伯領、リクヴィールなどライン川左岸にある地域全てを譲られ、独立した領邦君主としての地位も保障されて、新たな分家である新メンペルガルト家を起こした。
ルートヴィヒの領邦経営は三十年戦争によって困難な状況におかれ、モンベリアルは飢饉とペストの流行に苦しめられた。1628年に長兄ヨハン・フリードリヒが死去すると、後継者でまだ14歳だった甥のエーバーハルト3世の摂政および後見人に指名され、シュトゥットガルト宮廷に呼び戻された。ルートヴィヒによるヴュルテンベルク統治は、翌1629年に神聖ローマ皇帝フェルディナント2世が出した復旧勅令(Restitutionsedikt)によって最初から危機にさらされ、勅令に基づく皇帝軍の占領によって公国は領土のほぼ3分の1を失った。1630年11月に重病に罹ってモンベリアルに帰り、年明けに死去した。
子女
[編集]1617年7月14日にヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ5世の娘エリーザベト・マグダレーナ(1600年 - 1624年)と最初の結婚をし、2男1女をもうけたが、1624年に死別した。
- クリストフ(1620年 - 1621年)
- ヘンリエッテ・ルイーゼ(1623年 - 1650年) - 1642年、ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯アルブレヒトと結婚
- レオポルト・フリードリヒ(1624年 - 1662年) - ヴュルテンベルク=メンペルガルト公
1625年5月15日にナッサウ=グライブルク伯ヨハン・カジミールの娘で先妻の従妹にあたるアンナ・エレオノーレ(1602年 - 1685年)と再婚し、間に2男1女をもうけた。
- ゲオルク(1626年 - 1699年) - ヴュルテンベルク=メンペルガルト公
- ハインリヒ(1627年 - 1628年)
- ゲオルギーア・ルイーゼ(1630年)
参考文献
[編集]- Sönke Lorenz, Dieter Mertens, Volker Press (Hrsg.): Das Haus Württemberg. Ein biographisches Lexikon. Kohlhammer, Stuttgart 1997, ISBN 3-17-013605-4, S. 178–180.
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