ルーマニア国王
ルーマニア人の王(ルーマニア語: Regele Românilor[1])、ないしルーマニア国王(ルーマニア語: Regele României)は、1881年から共和制が宣言された1947年までの間、ルーマニア王国に君臨した君主の公的称号である。
概史
[編集]オスマン帝国の従属国であったワラキアとモルダヴィアの両公位が1859年にアレクサンドル・ヨアン・クザによって兼ねられ、1862年にルーマニア公ないしは支配者となったクザによって統一されると、国はルーマニア連合公国と呼ばれた。1866年にクザは議会によって退位させられたが、この時に議会は連合公国の君主をドイツ諸侯に要請し、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家のカロル1世が新たなルーマニア公となった。
オスマン帝国からのルーマニアの独立は1878年のベルリン会議で認められ、ルーマニアは1881年に主権のある王国となり、カロル1世は国王となった[2]。カロル1世には子が無く、1914年に崩御すると甥のフェルディナンド1世が即位した。
1927年にフェルディナンド1世が崩御した時、息子カロルは女性関係が原因で父フェルディナンド1世の前で公的文書により自身の王位請求権を放棄していたため、その子のミハイ1世(フェルディナンド1世の孫)が国王に据えられた。しかしミハイ1世の最初の統治は、しばしば愛人と西欧に安息の地を求めて国を留守にしていた父カロルの帰国と即位宣言により、わずか3年で終わりを迎えた。カロル2世は当初ルーマニアを統治することは望んではおらず、不満を抱く一部の政治派閥によって企てられた突然の「クーデター」の際、王位を請求するよう強要された。
カロル2世の10年にわたる統治は1940年に突然終わりを告げた。8月30日に発表されたドイツとイタリアの仲裁による第二次ウィーン裁定で、トランシルヴァニアをハンガリーに割譲せざるを得なくなったカロル2世の威信は急速に低下した。9月6日、イオン・アントネスクが主導したクーデターによりカロル2世は退位を強要され、装甲列車で国外退去した。カロル2世は最終的にポルトガルに落ち着き、愛人マグダ・ルペスクと結婚した。その後「プレイボーイ王」がルーマニアに呼び戻されることはなかった。
復位したミハイ1世は憲法への宣誓と議会の信任を抜いたことで、憲法に拠らない王として君臨した。2度目の即位から間もない1940年9月6日、戴冠式の代わりに[3]、ブカレストの総主教座大聖堂においてルーマニア正教会総主教ニコディム・ムンテアヌによって王として成聖された[4]。このように、ミハイ1世は聖なる権利による唯一の「神の恩寵下にある」[3]完全に非憲法的な王であった。しかし、ミハイ1世の第2の在位期間の大半は全権を有する国家指導者となったアントネスクの独裁体制下(1940年 - 1944年)にあったため、ほとんどの権限を行使することができなかった[5]。
ルーマニアはドイツと同盟を結んで対ソ戦を戦ったが、1944年にはソヴィエト赤軍がルーマニア東部に迫った。ミハイ1世は同年8月23日にアントネスクを解任、ドイツとの同盟を破棄して1923年の民主的な憲法を回復した(ルーマニア革命)。しかし赤軍と同盟を結んでドイツと戦ったにもかかわらず、ソヴィエトによるルーマニア占領が1945年に始まった。1946年、ミハイ1世は議会を最初に一時停止してすぐに復活させた。1947年12月にルーマニア共産党員(「自由主義者」と呼ばれた)はソヴィエト占領軍の銃剣と戦車で舞い戻り、君主制の廃止を宣言した。退位を強要されたミハイ1世は国外退去することを許された。
1989年に共産主義政権が崩壊すると、ミハイ1世はルーマニアへの帰国を果たした。元国王はルーマニア国民から好意的に受け入れられ、とりわけブカレスト市街では多くの群衆から熱烈な歓迎を受けた。ミハイ1世はルーマニアにおいて公的な地位を持っていなかったが、ルーマニアの現状に対する遠慮ない発言を続けた。また、共和国大統領や首相はミハイ1世ら旧王族との会談をたびたび行い、旧王室と共和国政府との関係は決して悪くはない。
2016年6月16日、社会民主党党首リヴィウ・ドラグネアは、旧王室の法的な地位を規定する法案を準備する意向を明らかにした[6]。ダチアン・チョロシュ首相はこれを受けて、「政府も既に王室の地位に関する研究を始めており、ドラグネア党首がこの件を支持しうると聞けて嬉しい」との考えを明らかにした。6月23日、政府は「ルーマニア王室に関する法律」案を公表した[7]。この法案が成立すれば、ルーマニア王家家長は大統領経験者と同額の手当を毎月支給され、また王室の運営費は国家予算で賄われ、王室はエリサベータ宮殿を99ヶ年無償で使用できるようになる。
歴代国王一覧
[編集]肖像 | 名前 | 在位年 | 備考 |
---|---|---|---|
1839年 - 1914年 |
1881年3月26日 - 1914年10月10日 | ||
1865年 - 1927年 |
1914年10月10日 - 1927年7月20日 | カロル1世の甥。 | |
1921年 - 2017年 |
1927年7月20日 - 1930年6月8日 | フェルディナンド1世の孫。 | |
1893年 - 1953年 |
1930年6月8日 - 1940年9月6日 | フェルディナンド1世の長男、ミハイ1世の父。 | |
1940年9月6日 - 1947年12月30日 | カロル2世の子。2016年までルーマニア王家家長。 |
王位請求者
[編集]2007年のルーマニア王家家内法の改定により、推定相続人の地位は本家のホーエンツォレルン侯フリードリヒ・ヴィルヘルムから長女のマルガレータに移った。 2016年3月にミハイ1世が公的な立場から退くとマルガレータが「ルーマニア王冠の守護者(ルーマニア語: Custode al Coroanei României)」を称するようになり、翌2017年にミハイ1世が崩御するとマルガレータが「陛下」と呼ばれるようになった。
カロル2世が、結婚無効を宣告された最初の妻ジジ・ランブリノとの間に儲けたカロル(ミハイ1世の異母兄)の長男パウルは、カロル2世の最初の結婚が有効であるとして、自身が正当なルーマニア王家の家長であると主張している。
現時点の相続人たち
[編集]- エレナ(1950年 - ) - ミハイ1世の次女。
- エリサベータ(カリーナ)(1989年 - ) - エレナの長女。
系図
[編集]カール・アントン ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
レオポルト ホーエンツォレルン侯 | エステファニア ポルトガル王妃 | カロル1世 ルーマニア王 | アントン | フリードリヒ | マリア フランドル伯夫人 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヴィルヘルム ホーエンツォレルン侯 | フェルディナンド1世 ルーマニア王 | カール・アントン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アウグスタ・ヴィトリア ポルトガル王妃 | フリードリヒ ホーエンツォレルン侯 | フランツ・ヨーゼフ | カロル2世 ルーマニア王 | エリサヴェト ギリシャ王妃 | マリア ユーゴスラビア王妃 | ニコラエ | イレアナ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フリードリヒ・ヴィルヘルム ホーエンツォレルン侯 | フランツ・ヨーゼフ | ヨハン・ゲオルク | フェルフリート | ミハイ1世 ルーマニア王 | カロル・ランブリノ (庶子扱い) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カール・フリードリヒ ホーエンツォレルン侯 | マルガレータ | エレナ | イリナ | ソフィア | マリア | パウル=フィリッペ | イオン | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アレクサンダー | ニコラエ | カリーナ | カロル・フェルディナンド | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ Romanian coins
- ^ “"Reminiscences of the KING OF ROUMANIA", Edited from the original with an Introduction by Sidney Whitman, Authorized edition, Harper& Brothers: New York and London, 1899.”. 2010年6月23日閲覧。
- ^ a b Fundamental Rules of the Royal Family of Romania - ウェイバックマシン(2013年9月21日アーカイブ分)
- ^ Rev. Fr. Dimitrie Bejan. “"The Joys of Suffering," Volume 2, "Dialogue with a few intellectuals"”. 2010年6月23日閲覧。
- ^ Ioan Scurtu, Theodora Stănescu-Stanciu, Georgiana Margareta Scurtu. Istoria românilor între anii 1918–1940. p. 280
- ^ “Dragnea: Statutul Casei Regale trebuie mult mai bine reglementat; o să am o discuţie şi cu Cioloş şi cu celelalte partide”. 2017年11月12日閲覧。
- ^ “Video Casa Regală a României, susținută cu bani de la stat”. 2017年11月12日閲覧。