レイモンド・マッキンタイア
レイモンド・マッキンタイア Raymond McIntyre | |
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1912年のマッキンタイア | |
生誕 |
1879年2月5日 ニュージーランド、クライストチャーチ |
死没 |
1933年9月24日 (54歳没) イギリス、ロンドン |
レイモンド・フランシス・マッキンタイア(Raymond Francis McIntyre、1879年2月5日 – 1933年9月24日)は、ニュージーランドの画家、美術評論家である。
略歴
[編集]クライストチャーチで生まれた。父親のジョージ・マッキンタイア(George McIntyre)は1902年にクライストチャーチ近郊の町ニューブライトン(New Brighton)の市長になる人物である[1] 。幼い頃から健康に恵まれず、社交的な性格では無かったが、芸術家の友人と親しくなりチェロの演奏もした[2]。15歳の1894年に、クライストチャーチのカンタベリー美術学校(Canterbury College School of Art、後にカンタベリー大学に統合)で Herdman SmithやAlfred Walshに学んだ[2] 。1901年から5年間クライストチャーチのCathedral SquareにLeonard Booth と Sydney Thompsonと共同でスタジオを開いた[2] 。その後、3年間カンタベリー美術学校で学んだが、その内容に満足できず、1909年にイギリスに渡った。ロンドンのチェルシーにスタジオを借り、1910年から ウェストミンスターの美術学校(Westminster School of Art)でウィリアム・ニコルソン(1872-1949)やウォルター・シッカート(1860-1942)に学んだ。
1911年にはロンドンの画廊で作品を展示し[3]、リュシアン・ピサロやテオ・ファン・レイセルベルヘらが1919年に結成して3年ほど活動した印象派の画家のグループ「Monarro Group」の1921年のグーピル商会の画廊での展覧会にポール・シニャックらと出展した[2]。
美術評論家としても「Architectural Review」誌に評論を寄稿し、セザンヌやヘッケル、シニャックなどの作品のレビューを執筆した。1924年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの展覧会に作品が受理されたが、1926年に展覧会への出展を止めた[3]。
1933年にロンドンで54歳で亡くなった。
レイモンド・マッキンタイアの作品はニュージーランド、ウェリントンの ニュージーランド国立博物館テ・パパ・トンガレワやオークランドのオークランド美術館、ダニーデンのHocken Collectionsなどに収蔵されている[3]。
作品
[編集]-
Portrait of Doris McIntyre (1908)
ニュージーランド国立博物館テ・パパ・トンガレワ -
自画像 (1915)
ニュージーランド国立博物館テ・パパ・トンガレワ -
室内 (c.1919)
オークランド美術館 -
バークシャーの風景 (c.1620)
ニュージーランド国立博物館テ・パパ・トンガレワ
参考文献
[編集]- ^ Platts, Una (1980). Nineteenth Century New Zealand Artists: A Guide & Handbook. New Zealand: Avon Fine Prints. pp. 161
- ^ a b c d Day, M.N. (1978). “Raymond Francis McIntyre: 1879–1933”. ART New Zealand 10 .
- ^ a b c “McIntyre, Raymond Francis – Artists – Australian Art Auction Records” (英語). www.artrecord.com. 2017年3月16日閲覧。