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レイ・コリンズ (ミュージシャン)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
レイ・コリンズ
Ray Collins
生誕 (1936-11-19) 1936年11月19日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ポモナ
死没 2012年12月24日(2012-12-24)(76歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州クレアモント
ジャンル ロック
ロックンロール
ドゥワップ
職業 音楽家
共同作業者 フランク・ザッパ
ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション

レイ・コリンズRay Collins1936年11月19日 - 2012年12月24日)は、アメリカ合衆国音楽家。ヴォーカリスト。フランク・ザッパが率いたザ・マザーズ・オブ・インヴェンションThe Mothers of Invention)のオリジナル・メンバーである。

経歴

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カリフォルニア州ポモナ出身。警察官の息子として育ち、学校の合唱団で歌っていた。結婚を理由に、通っていた高校を中退した[1]1950年代後半から音楽のキャリアを始め、1960年代前半にかけて、ロサンゼルス周辺で、Little Julian Herrera and the Tigers[2] [3][4]をはじめ様々なドゥワップ・グループの助っ人として、ファルセットコーラスを歌った[1]

1962年、ザッパに出会い[注釈 1]、彼に誘われてクカモンガにあるパル・レコーディング・スタジオ[注釈 2]で共同でレコーディングを行なった。両者は1963年にNed and Nelda[5]の名義でシングル'Hey Nelda'[注釈 3][6]Baby Ray and The Ferns[7]の名義でシングル'How's Your Bird'[注釈 4][8]を発表。また'Memories of El Monte'という楽曲を共作。ザッパはこの曲を当時西海岸で人気があったディスク・ジョッキーアート・ラボーに聴かせると、ラボーはこの曲を気に入って、ドゥーワップ・グループのザ・ペンギンズが録音することを提案した。ザ・ペンギンズはザッパをプロデューサーに迎えて、パル・レコーディング・スタジオでこの曲を録音して、1963年にシングルとして発表した[9][10]。また別の共作'Everytime I See You'はドゥーワップ・デュオのザ・ハートブレイカーズ[11]のシングルとして1963年4月に発表された[注釈 5][12][13]

1964年、ジミー・カール・ブラック(ドラムス)、ロイ・エストラーダ(ベース・ギター)、デイヴ・コロナード (Dave Coronadoサクソフォーン)、レイ・ハント (Ray Hunt、ギター) とザ・ソウル・ジャイアンツ (The Soul Giants) というR&Bバンドを結成して、ポモナのザ・ブロードサイドというバーで有名な曲を演奏するようになった。まもなくハントが脱退した[注釈 6][14][2]ので、コリンズは旧知のザッパに電話してザ・ソウル・ジャイアンツに勧誘した[注釈 7]。ザッパを迎えたコリンズ達は他人の曲ではなくオリジナル曲を演奏しようというザッパの提案を受け入れてザッパの作品を演奏するようになり、仕事を失う事を恐れて唯一人反対したコロナードは去っていった[2]

コリンズ、ザッパ、ブラック、エストラーダの4名は、1965年5月にバンド名をザ・マザーズThe Mothers)に変更し[注釈 8]、より多くの機会を求めてハリウッドに移り、様々な新メンバーが短期間で次々に入れ替わる[注釈 9][15]中を活動を続けた。コリンズは1966年初めにザ・マザーズを脱退したが直ぐに再加入し[16]、彼等は同年3月1日にMGMレコードの子会社であるヴァ―ヴ・レコードと契約を結んで、デビュー・アルバム『フリーク・アウト!』を制作。同年6月にアルバムを発表するにあたって、バンド名を変えるようにというMGMレコードの要求[注釈 10]に応じて、ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションThe Mothers of Invention)と名乗った[1]

彼は1967年9月の終わりから10月の初めに行なわれた初のヨーロッパ・ツアーの前後に再び脱退と再加入を繰り返した。そして1968年のアメリカ・ツアーの後、同年8月に最終的にザ・マザーズ・オブ・インヴェンションを脱退した[17]。在籍中、『フリーク・アウト!』(1966年)、『アブソリュートリー・フリー』(1967年)、『クルージング・ウィズ・ルーベン&ザ・ジェッツ』(1968年)などのアルバムでリード・ヴォーカルをとった。『フリーク・アウト!』の'Go Cry on Somebody Else's Shoulder'と『クルージング・ウィズ・ルーベン&ザ・ジェッツ』の'Fountain of Love'はザッパとの共作、『クルージング・ウィズ・ルーベン&ザ・ジェッツ』の'Deseri'はパル・レコーディング・スタジオの所有者だったレコーディング・エンジニアのポール・バフとの共作、『クルージング・ウィズ・ルーベン&ザ・ジェッツ』の'Anything'は彼の単独作である。

脱退後、1970年代半ばまで、ザッパのプロジェクトの幾つかに参加した[注釈 11][1]

2012年12月24日カリフォルニア州クレアモントで76歳で他界[18]

ディスコグラフィ

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ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション

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ザッパの生前に発表されたものに限る[17]

オリジナル・アルバム
編集アルバム

フランク・ザッパ

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ザッパの生前に発表されたものに限る[17]

オリジナル・アルバム
編集アルバム

その他

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Little Julian Herrera and the Tigers

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  • I Remember Linda / True Fine Mama (1958年)[4]

Ned and Nelda

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  • Hey Nelda / Surf Along (1963年)[6]

Baby Ray and The Ferns

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  • How's Your Bird / The World's Greatest Sinner (1963年)[8]

編集アルバム

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フィルモグラフィ

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引用文献に基づく[17]

脚注

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注釈

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  1. ^ 彼等はコリンズの出身地であるポモナで出会った。当地でボーカリストとして活動していたコリンズがある晩バーで飲んでいると、ザッパ(ギター)を含む4人編成のバンドが入ってきて演奏を始め、コリンズはステージに上がって彼等に加わって一曲歌った。これがきっかけで二人は親しくなった。
  2. ^ コーディング・エンジニアのポール・バフが設立したスタジオ。バフは1961年にザッパに出会って彼にレコーディングの基本を教えた。1963年当時、バフがディスク・ジョッキーのArt LaboeOriginal Soundと契約を結んでハリウッドのスタジオで作業する時間が増えて、パル・レコーディング・スタジオはバフが所有したままザッパが引き継いだ形となっており、彼は離婚した後スタジオに引っ越して録音作業に没頭していた。
  3. ^ B面に収録された'Surf Along'と共に、ザッパとコリンズの共作であった。
  4. ^ B面に収録された'The World's Greatest Sinner'と共に、ザッパの作品であった。
  5. ^ 録音はハリウッドで行なわれて、ザッパとコリンズは参加していない。
  6. ^ ザッパは自伝で、コリンズがハントと喧嘩になり暴力を使って彼を追い出した、と記した。しかしコリンズによると、ハントはグループを辞めたくて故意に演奏を間違うようになり、それをエストラーダやブラックに指摘されて去っていったという。
  7. ^ ザッパは1964年7月にバフからパル・レコーディング・スタジオを買い取って、8月1日にスタジオZとして再出発させ、様々なレコーディングを続けていた。しかし、表通りの向こう側の教会が、スタジオZには怪しげな人々が出入りしていると警察に報告したので、警察はスタジオで公序良俗に反する映画が撮影されているのではと疑いだした。1965年3月、ザッパは客を装った刑事がよこした「パーティ―で流したいから、行為を録音したテープを作ってくれ」という注文に応じてしまい、ガールフレンドと共同で、行為を連想させる声とベッドがきしむ音で構成された30分程度のテープを制作した。そして3月26日に代金の支払いと引き換えに商品を渡そうとしたところ、踏み込んできた警官に連行されて10日間を刑務所で過ごした。この間、スタジオは警察の捜査によってすっかり荒らされ、テープや機材などが押収されてしまった。コリンズが失意のザッパに電話したのは、偶然にも彼が出所した数日後のことであった。彼等は一年近く連絡を取り合っておらず、コリンズは当時、平日は義理の兄弟と共に大工として働いていた。
  8. ^ 新しいバンド名がザ・マザーズに決まった日は5月の第2日曜日で「母の日」であったが、メンバー達は後日その偶然に気がついたという。
  9. ^ のちにキャンド・ヒートのメンバーになったヘンリー・ヴェスタインや、シカゴのプロデューサーになって名を馳せたジェイムズ・ウィリアム・ガルシオなどが含まれる。
  10. ^ マザーズという単語が放送禁止用語を連想させるという理由だった。
  11. ^ ザッパは1969年10月にザ・マザーズ・オブ・インヴェンションを解散したが、1970年5月にズービン・メータ指揮のロサンジェルス・フィルハーモニックとの共演コンサートの為に一時的に再結成した。コリンズはこの再結成に参加して、ボーカルを担当した。また、1974年に発表されたザッパのソロ・アルバム『アポストロフィ (')』でバッキング・ボーカルを担当した。

出典

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  1. ^ a b c d Allen, David (2009年5月30日). “Please greet Ray Collins, Claremont's own Mother”. Inland Valley Daily Bulletin. 2011年9月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年5月31日閲覧。
  2. ^ a b c Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 65.
  3. ^ Ulrich (2018), p. 110.
  4. ^ a b Discogs”. 2023年4月1日閲覧。
  5. ^ Discogs”. 2023年4月1日閲覧。
  6. ^ a b Discogs”. 2023年4月2日閲覧。
  7. ^ Discogs”. 2023年4月1日閲覧。
  8. ^ a b Discogs”. 2023年4月2日閲覧。
  9. ^ Miles (2004), p. 71.
  10. ^ Discogs”. 2023年4月1日閲覧。
  11. ^ Discogs”. 2023年4月15日閲覧。
  12. ^ Miles (2004), p. 73.
  13. ^ Discogs”. 2023年4月15日閲覧。
  14. ^ Miles (2004), p. 88.
  15. ^ Ulrich (2018), p. xxviii.
  16. ^ Miles (2004), p. 111.
  17. ^ a b c d Ulrich (2018), p. 111.
  18. ^ Morris, Christopher, "Rocker Ray Collins dies at 73", Variety, Dec. 25, 2012.
  19. ^ zappa.com”. 2023年3月13日閲覧。
  20. ^ imdb.com”. 2023年3月12日閲覧。
  21. ^ zappa.com”. 2023年3月13日閲覧。
  22. ^ imdb.com”. 2023年3月12日閲覧。

参考文献

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  • Miles, Barry (2004). Zappa. New York: Grove Press. ISBN 0-8021-4215-X 
  • Ulrich, Charles (2018). The Big Note: A Guide To The Recordings Of Frank Zappa. Vancouver: New Star. ISBN 978-1-55420-146-4 
  • Zappa, Frank; Occhiogrosso, Peter (1990). The Real Frank Zappa Book. New York: Touchstone. ISBN 0-671-70572-5 

外部リンク

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