レカイ
レカイ Okay オカイ | |
---|---|
コミーン | |
北緯18度12分 西経73度45分 / 北緯18.200度 西経73.750度 | |
国 | ハイチ |
県 | 南県 |
郡 | オカイ郡 |
面積 | |
• 合計 | 219.11 km2 |
人口 (2023年)推計値[2] | |
• 合計 | 51,637人 |
• 密度 | 240人/km2 |
等時帯 | UTC-5 (東部標準時) |
• 夏時間 | UTC-4 (東部夏時間) |
レカイ(仏: Les Cayes, Aux Cayes, ハイチ語: Okay)は、ハイチ南西部の都市。人口は約5万人(2023年)で、南県の県庁所在地である。
概要
[編集]名前は沖合に浮かぶグランド・カイやプティト・カイなどからカイの街という意味である。ラヴィヌディシド川(Ravine du Sud, 南部渓谷)の河口の北に位置しハリケーン時には洪水が多い。 ヴァシュ島に渡る船が出ている。アントワーヌ・シモン空港がある。カテドラルや砦の遺跡などポルトープランスからの観光地となっている。守護聖人は被昇天の聖母で8月15日が祝日である。
歴史
[編集]1503年にスペイン人によりサルバティエラ・デ・ラ・サバナ (Salvatierra de la Sabana) 砦が建設され、1540年に放棄された。
仏領サン=ドマングとされて後1720年に同地に砦を建設せよとのルイ15世の王命が出され、1726年にド・ラ・ランスの設計で[3]町が建設された。サン=ドマング時代には砂糖とコーヒー、バナナ、木材の輸出港として栄えた。
ハイチ革命時にはオカイでは多くの人が死んだ。オカイから数kmのカン・ジェラールでは1803年7月ジャン=ジャック・デサリーヌと南軍第一師団のニコラ・ジェフラール将軍が対面し、協定を結んだ。1814年のクリスマス・イヴにはシモン・ボリバルがキングストンからレカイを訪れ、歓迎と共に武器や部隊などの必要な支援を受けた。ボリバルは1816年4月10日にベネズエラに渡った。その頃レカイからカルタヘナの海域ではフランス系海賊のルイ=ミシェル・オリが活動していた。
2021年8月14日に発生したハイチ地震では、震源に近かったため多数の住宅が倒壊、死亡者が出る被害が生じた[4]。
人口動態
[編集]1995年の推計人口は45,904人だった。
著名な出身者
[編集]- 1761年: アンドレ・リゴー - ハイチ革命におけるムラートの指導者
- 1785年: ジョン・ジェームズ・オーデュボン - 画家、鳥類学者
- 1789年: シャルル・リヴィエル=エラール - 大統領 (1843年 - 1844年)
- ミシェル・ドミニク - 大統領 (1874年 - 1876年)
- 1815年: リシュー・ソロモン - 大統領 (1879年 - 1888年)
- 1832年: ピエール・テオマ・ボワロン=カナル - 大統領 (1876年 - 1879年)
- 1843年: フランソワ・C・アントワーヌ・シモン - 大統領 (1908年 - 1911年)
脚註
[編集]- ^ “Haiti: administrative units, extended”. geoHive. 2016年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月14日閲覧。
- ^ “Population Hub”. 15 June 2023閲覧。
- ^ L'urbanisme à l'époque moderne: XVIe-XVIIIe siècles
- ^ “ハイチ地震、死者1200人超に 行方不明も多数”. BBC (2021年8月16日). 2021年8月18日閲覧。
外部リンク
[編集]- Profil de la Ville des Cayes
- Aux Cayes, The Louverture Project