レニエ5世 (エノー伯)
レニエ5世 Régnier V | |
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モンス伯 | |
在位 | 1013年 - 1039年 |
出生 |
995年ごろ |
死去 |
1039年以降 |
配偶者 | マティルデ・フォン・フェアドゥン |
子女 | エルマンまたはリシルド |
家名 | レニエ家 |
父親 | エノー伯レニエ4世 |
母親 | エドヴィジュ・ド・フランス |
レニエ5世(Régnier V, 995年ごろ - 1039年以降)は、モンス伯(在位:1013年 - 1039年)。
生涯
[編集]レニエ5世は、エノー伯レニエ4世とエドヴィジュ・ド・フランスの息子である。母エドヴィジュはフランス王ユーグ・カペーとアデライード・ダキテーヌの娘であった。
1013年に名目上のエノー伯およびモンス伯位を継承した。父と同様にロートリンゲン公と対立し、エノー伯領を取り戻そうとした。叔父のルーヴェン伯ランベール1世と共に下ロートリンゲン公ゴットフリート2世と戦った。叔父の死後、その息子アンリ1世はレニエとの同盟を続けた。1018年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世とカンブレー司教ジェラール1世の調停によりナイメーヘンの裁判所でこの紛争は解決された。和平を確実なものとするため、レニエ5世はゴットフリート2世の姪であり、ヴェルダン伯ヘルマン・フォン・エナメの女子相続人であるマティルデと結婚した。この結婚によりブラバントの一部がレニエにもたらされた。これ以降、レニエはゴットフリート2世を支持し、共にホラント伯ディルク3世と戦った。ハインリヒ2世の死後は、両者ともロートリンゲン貴族としてコンラート2世に抵抗した[1]。その後、フランドル伯との対立も起こり、その中でブラバントにあったレニエ5世の最も重要な城であるエナメ城が1033年に破壊された。
父と同様に、レニエ5世は当時の精神世界に強い関心を持ち、サン=ギスラン修道院長オルベールと連絡を取り合った。オルベールは聖ヴェロヌスの伝記をレニエ5世に捧げた。しかし、彼はスタヴロー修道院長ポッポが皇帝コンラート2世とカンブレー司教ジェラールの支援を受けて開始した修道院改革に反対した。レニエ5世はジェラールが任命したサン=ギスラン修道院長エリブランに圧力をかけたため、エリブランらは皇帝に保護を求めた。
妃マティルデとの間に1子をもうけたが、伯位を継承したエルマンが息子なのか、それともその妃リシルドが娘なのかはっきりしない。リシルドは夫エルマンの死後、フランドル伯ボードゥアン6世と再婚した。
脚注
[編集]- ^ “Konrad II. (RI III, 1) n. s”. 2023年4月29日閲覧。
参考文献
[編集]- Karl Uhlirz (1888). "Reginare". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 27. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 552–557.
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