レフ・シテインベルク
レフ・ペトロヴィチ・シテインベルク | |
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基本情報 | |
出生名 | Лев Петрович Штейнберг |
生誕 |
1870年9月15日 ロシア帝国、エカチェリノスラフ |
死没 |
1945年1月16日(74歳没) ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ |
学歴 | サンクトペテルブルク音楽院 |
ジャンル | クラシック |
職業 | 指揮者、作曲家、音楽教師 |
レフ・ペトロヴィチ・シテインベルク(ロシア語: Лев Петрович Штейнберг, ラテン文字転写: Lev Petrovich Shteinberg, 1870年9月15日(ユリウス暦9月3日)エカチェリノスラフ - 1945年1月16日 モスクワ)は、帝政ロシア、ソビエト連邦の指揮者、作曲家。ソ連人民芸術家(1937年授与)。労働赤旗勲章受章者。
概要
[編集]ロシア帝国エカチェリノスラフ(現ウクライナ ドニプロペトロウシク)にアシュケナジム・ユダヤ系の家庭に生まれる。
サンクトペテルブルク音楽院で、アントン・ルビンシテインにピアノを、リムスキー=コルサコフ、リャードフ等に作曲を学び、1893年に卒業する。卒業後は、サンクトペテルブルクでオペラ指揮者として活躍する。
1914年、セルゲイ・ディアギレフに招かれ、バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)のパリ及びロンドン公演に参加する。ボリシェヴィキ政権成立後は、多くの亡命者が出る中、国内に留まる道を選び、1917年から1924年までキエフ、1924年から1928年までハリコフでそれぞれ音楽院での教授や指揮活動を行い、多くの作品を発表している。1928年からモスクワのボリショイ劇場の指揮者陣に加わる(1928年から1941年までと1943年から没年、1945年まで)。1937年から1938年にかけてはモスクワ音楽院教授も務めた。
最晩年の1943年には、モスクワ国立交響楽団(略称:МГАСО)[1]を創設している。
1945年、モスクワで没し、ノヴォデヴィチ墓地に埋葬された。
録音
[編集]1943年にボリショイ劇場管弦楽団・合唱団を指揮して、リムスキー=コルサコフのオペラ『皇帝の花嫁』の初の全曲録音を行っている。後にメロディアからLP復刻されている[2]。
主な作品
[編集]- 交響曲3曲(1906年、1916年、1920年)[3]
- 交響詩『赤の広場 Красная площадь』(合唱つき、1934年)
- バレエ『ミッラ Мирра』(1924年)
- ヴァイオリン協奏曲(1923年)
- オペラ『世界を揺るがした十日間 Девять дней, которые потрясли мир』(1932年)
- カンタータ『サムソン』(1892年)
その他、ウクライナの指導的作曲家ミコラ・リセンコのオペラ『タラス・ブーリバ』のオーケストレーションも行っている。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Biographical Dictionary of Russian/Soviet Composers ISBN 0-313-24485-5
外部リンク
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