レフ・シャウミャン
レフ・ステパノヴィチ・シャウミャン | |
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誕生 |
Лев Степанович Шаумян Լևոն Ստեփանի Շահումյան 1904年4月25日 ロシア帝国チフリス県チフリス郡チフリス |
死没 |
1971年5月24日(67歳没) ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ |
職業 | ジャーナリスト |
言語 | ロシア語・アルメニア語[1] |
国籍 |
ロシア帝国→ ソビエト連邦 |
民族 | アルメニア人 |
教育 | スヴェルドロフ共産大学 |
最終学歴 | 全連邦共産党(ボ)中央委員会附属高等党学校 |
主題 | 共産党史・ソ連史 |
主な受賞歴 | レーニン勲章[2] |
親族 |
ステパン(父) スレン(兄) セルゲイ(弟) |
所属 | 「ソビエツカヤ・エンツィクロペディヤ」 |
レフ(レヴァ[3])・ステパノヴィチ・シャウミャン(ロシア語: Лев (Лева) Степанович Шаумян、1904年4月25日 - 1971年5月24日)、民族名レヴォン(レヴァン[4])・ステパニ・シャフミアン(アルメニア語: Լևոն Ստեփանի Շահումյան)は、ソビエト連邦のジャーナリスト。
生涯
[編集]1904年4月25日、革命家ステパン・シャウミャンの次男[5]としてロシア帝国チフリス県チフリスに生まれた[2]。後に歴史家となるセルゲイ (hy) は弟[6]。1917年9月からバクーのボリシェヴィキ組織で活動を始め、1918年夏にはバクー・コミューンを防衛する戦いに参加して負傷し、同年9月にコミューンが崩壊するとコミューン成員らとともに逮捕・収監された[2]。父は処刑されたが、自身は兄スレンとともに処刑を逃れ[7]、その後ヨシフ・スターリンに引き取られた[4]。
1919年からボリシェヴィキ党員となり、同年から翌1920年までバクーとチフリスの地下組織で活動[2]。第8回 (ru) および第9回 (ru) 全ロシア・ソビエト大会では組織委員会で働き、第10回および第11回(そして第17回)党大会にも出席している[2]。1922年から翌1923年までスヴェルドロフ共産大学で学び、1924年から1932年までスターリングラード、モスクワ、バクー、ロストフ・ナ・ドヌで活動した[2]。
1932年からは数々の新聞の編集に携わり、1941年から1946年までは『ウラリスキー・ラボーチー』(ru) 編集長を務めた[2]。1948年に高等党学校を卒業[2]。翌1949年から「ソビエツカヤ・エンツィクロペディヤ」出版社 (ru) で働き、1954年から大編集委員会メンバー、1959年から第一副編集長として『ソビエト大百科事典』第2版・第3版および『ソビエト小百科事典』第3版の編集に関わった[2]。科学編集出版会議副議長も務め、共産党史、ソ連史や[2]バクー・コミューン、革命家カモについての著作もある[1]。
脚注
[編集]- ^ a b "ՇԱՀՈՒՄՏԱՆ". Հայկական Սովետական Հանրագիտարան. Vol. 8. Երևան: Հայ սովետական հանրագիտարան հրատարակչություն. Վիկտոր Համբարձումյան. 1982. p. 430.
- ^ a b c d e f g h i j k ШАУМЯН 1 // ЧЖАН ВЭНЬ-ТЯНЬ — ЯШТУХ. — М. : Советская энциклопедия, 1976. — (Советская историческая энциклопедия : [в 16 т.] / гл. ред. Е. М. Жуков ; 1961—1976, т. 16).
- ^ ミコヤン (1973) vi頁
- ^ a b サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ 著、松本幸重 訳『スターリン - 青春と革命の時代』白水社、2010年(原著2007年)、616頁。ISBN 978-4-560-08052-8。
- ^ ミコヤン (1973) 152頁
- ^ “ՍԵՐԳԵՅ ՇԱՀՈՒՄՅԱՆ”. AV Production. 2018年4月1日閲覧。
- ^ ミコヤン (1973) 270頁
参考文献
[編集]- ア・イ・ミコヤン 著、小川政邦、上田津 訳『バクー・コンミューン時代』 ミコヤン回想録 1、河出書房新社、1973年(原著1972年)。 NCID BN06822788。