レ・ポン=ド=セ
Les Ponts-de-Cé | |
---|---|
| |
行政 | |
国 | フランス |
地域圏 (Région) | ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏 |
県 (département) | メーヌ=エ=ロワール県 |
郡 (arrondissement) | アンジェ郡 |
小郡 (canton) | レ・ポン=ド=セ小郡 |
INSEEコード | 49246 |
郵便番号 | 49130 |
市長(任期) |
ジョエル・ビゴ (2014年 - 2020年) |
自治体間連合 (fr) | C.A. Angers Loire Métropole |
人口動態 | |
人口 |
12 112人 (2013年) |
人口密度 | 620人/km2 |
住民の呼称 | Ponts-de-Céais |
地理 | |
座標 | 北緯47度25分31秒 西経0度31分27秒 / 北緯47.4252777778度 西経0.524166666667度座標: 北緯47度25分31秒 西経0度31分27秒 / 北緯47.4252777778度 西経0.524166666667度 |
標高 |
平均:m 最低:15m 最高:36m |
面積 | 19.55km2 |
公式サイト | ville-lespontsdece.fr |
レ・ポン=ド=セ (Les Ponts-de-Cé)は、フランス、ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏、メーヌ=エ=ロワール県のコミューン。
地理
[編集]アンジューのコミューンで、ロワール川が横切る。アンジェを取り巻く人口集塊の南側にあたる[1]。
由来
[編集]言い伝えによれば、ガリア人の攻撃は、作業していた彫刻家を遠ざけることになった。それによって、カエサル(フランス語でCésar)の最後の音節が刻まれなかったという。このようにコミューン名の接尾辞について説明されている[2]。
古い名前が以下のように残っている。Castro-Seio (889年)、Pon Sigei (1009年)、In Saiaco (1036年)、Saiacus (1090年)、Seium (1104年)、Pons Sagei (1115年)、Pons Sagii (1148年) Pons Saeii (1291年)、Le Pont de Sae (1293年)、Les Ponts de Sée (1529年)[3]、Les Ponts de Cé(1793年)、Pont-de-Cé(1801年)、その後Les Ponts-de-Céとなった[4]。
歴史
[編集]869年、シャルル2世は、ロワール川を上り侵攻してくるヴァイキングに対抗するため、レ・ポン=ド=セに要塞橋を築いた[5]。同様の橋の例として、ウール川のポン・ド・ラルシュ、マルヌ川のトリルバルドゥがある。
15世紀、ルイ11世は、この地がアンジュー領内にあったにもかかわらず、しばしばレ・ポン=ド=セに滞在した[6]。確かにその時代、ブルターニュ公フランソワ2世は、公国の独立を維持するため、ブルゴーニュ公シャルル豪胆公を含むフランス王の敵と同盟していた。王にとって、ポン=ド=セの城は、ブルターニュとの間の人の動きを管理できる理想的な場所だった。この目的のため、1472年8月29日に彼は到着した。7月7日、アンスニを、7月21日にプアンセを、国境の町を占領され、フランソワ2世は王国を攻撃する意図を捨てなければならなかった[7]。
1620年8月7日にも、レ・ポン=ド=セの戦いが起きている。ルイ13世の支持者と、王太后マリー・ド・メディシスの支持者が衝突したものである。当時、親政を開始してから3年が経過していたが、王太后が再び権力を取り戻そうとしていた。同盟者の一部が離脱したため、王太后軍は戦う前にすぐに指揮できなくなってしまった。
人口統計
[編集]1962年 | 1968年 | 1975年 | 1982年 | 1990年 | 1999年 | 2008年 | 2013年 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
5911 | 7175 | 9589 | 10739 | 11032 | 11387 | 11434 | 12112 |
参照元:1962年から1999年まで人口の2倍カウントなし。1999年までEHESS/Cassini[4]、2004年以降INSEE[8][9]
ギャラリー
[編集]-
レ・ポン=ド=セ城
-
サントーバン教会
脚注
[編集]- ^ IGN, Géoportail Les Ponts-de-Cé, consulté le 11 mai 2014.
- ^ Maguelonne Toussaint-Samat, Récits des Châteaux de la Loire, 1970, p. 18, Ed. Fernand Nathan.
- ^ Célestin Port, Dictionnaire historique géographique et biographique de Maine-et-Loire, 1874-1878, Édition révisée de 1989 par André Sarazin et Pascal Tellier, t. 3, p. 263.
- ^ a b http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=27522
- ^ Michel Dillange, Les comtes de Poitou, ducs d'Aquitaine : 778-1204, Mougon, Geste éd., coll. « Histoire », 1995, 303 p., ill., couv. ill. en coul. ; 24 cm (ISBN 2-910919-09-9, ISSN 1269-9454, notice BnF no FRBNF35804152), p. 59.
- ^ Joseph Vaesent et Étienne Charavay, Lettres de Louis XI, tome XI « Itinéraire », Librairie Renouard, Paris 1909.
- ^ Jean Favier, Louis XI p. 637 et 642, Fayard, Paris 2001.
- ^ http://www.statistiques-locales.insee.fr
- ^ http://www.insee.fr