ロッテルダム爆撃
ロッテルダム爆撃(ロッテルダムばくげき、蘭:Bombardement op Rotterdam)とは、第二次世界大戦中の1940年5月14日、ドイツ空軍がオランダのロッテルダムに対して行った空襲である。
経過
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
1940年5月10日、ドイツはオランダと開戦した。ドイツ軍にとって、大都市で工業地帯・港湾でもあるロッテルダムは重要な攻略目標となった。ドイツ軍の進撃は素早く、ロッテルダムを流れるニューウェ・マース川のヴィルヘルム橋は、その日のうちにドイツ軍空挺部隊によって占領されてしまった。オランダ軍は橋の奪還や破壊を試みたが、失敗した。
Scharroo大佐の率いるオランダ軍は川の北側に防衛陣を敷いた。その抵抗はドイツ軍の予想よりも手強く、5月14日になってもロッテルダムの攻略は成功しなかった。同日朝、アドルフ・ヒトラーは、部隊指揮官に速やかな占領を求める指示を送った。ドイツ軍のルドルフ・シュミット(de:Rudolf Schmidt)将軍は翌日に総攻撃をかけることにし、その準備と並行して、ロッテルダムに対する都市爆撃を決心した。その任務のため、第54爆撃航空団(KG 54)のHe-111爆撃機が用意された。
シュミット将軍は、オランダ軍守備隊のScharroo大佐に対してドイツ時間13時20分からの都市爆撃を通告して、降伏勧告を行った[1]。オランダ側が拒絶したため、シュミット将軍は期限を16時20分に延期して再度の降伏勧告を行ったが、そのときすでに爆撃隊はロッテルダムに発進していた[2]。ドイツ軍のクルト・シュトゥデント将軍は爆撃隊に作戦延期を無線連絡するとともに、現地の地上部隊からも灯火による信号を送らせたが、爆撃隊の約2/3は当初の予定通りに爆撃を実行してしまった。54機のHe-111により、97tの爆弾が市街地に投下された[3]。
結果
[編集]爆弾の大部分は市の中心部に着弾した。一部は港湾部の植物油タンクに命中して火災を発生させ、市街地への延焼を招いた[4]。その結果、中心部の2.6平方kmが焼け野原になり、家屋24,978戸、24個所の教会、2,320軒の商店、775棟の倉庫、62個所の学校が破壊された[5]。正確な人的被害は不明であるが、800~900人が死亡し、8万人が住居を失ったと推定されている。
ドイツ軍のシュトゥデント将軍は、オランダ軍指揮官に対して弔意を伝えた[6]。 5月14日、ロッテルダムが陥落した当日、オランダはドイツに降伏した[7]。
ロッテルダム爆撃を理由に、イギリス空軍も都市爆撃を開始した。イギリス空軍による最初のドイツ都市の爆撃は、5月15日夜に行われている[8]。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ E.H. Brongers, (ONR Part III), p. 235
- ^ E.H. Brongers, (ONR Part III), p. 227
- ^ E.H. Brongers, (ONR Part III), p. 236
- ^ Hooton, 1994. p. 249
- ^ Van Nul to Nu Deel 3-De vaderlandse geschiedenis van 1815 tot 1940, Page 42 Square 2- by Thom Roep and Co Loerakker ISBN 90-5425-098-4
- ^ Hooton, 1994. p. 249
- ^ ロッテルダム陥落、オランダ軍降伏(『東京朝日新聞』昭和15年5月16日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p368
- ^ Taylor, Chapter "Call Me Meier", p. 111
参考文献
[編集]- Brongers, E.H. Opmars naar Rotterdam, Aspect 2004, ISBN 90-5911-269-5
- Hooton, E.R (1994). Phoenix Triumphant; The Rise and Rise of the Luftwaffe. London: Arms & Armour Press. ISBN 1-86019-964-X
- Taylor, Frederick. Dresden: Tuesday, February 13, 1945, NY: HarperCollins, ISBN 0-06-000676-5; London: Bloomsbury, ISBN 0-7475-7078-7.