ロバート・ヘンライ
ロバート・ヘンライ Robert Henri | |
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生誕 |
1865年6月24日 アメリカ合衆国 シンシナティ |
死没 |
1929年8月12日(64歳没) アメリカ合衆国 ニューヨーク |
ロバート・ヘンライ(英語: Robert Henri, 1865年6月24日 - 1929年8月12日)はアメリカ合衆国の画家である。
略歴
[編集]オハイオ州のシンシナティに不動産業者、J.J.コザード(John Jackson Cozad)の息子、Robert Henri Cozadとして生まれた[1][2]。1882年に父親が仕事上の紛争から、発砲事件を起こし、コロラドへ逃亡し改名して暮らしたのに伴って、ヘンライも改名した。1883年に家族はニューヨークに移り、さらにアトランティックシティに移った。1886年にペンシルベニア美術アカデミー(Pennsylvania Academy of the Fine Arts)で学んだ後、1888年にフランスに渡り、1889年から1891年まで、アカデミー・ジュリアンでウィリアム・アドルフ・ブグローに学び[3]、エコール・デ・ボザールでも学んだ。
1891年にフィラデルフィアに戻り、1892年からフィラデルフィア女子デザイン学校(Philadelphia School of Design for Women)で教師を始めた。フィラデルフィアではジョン・スローン、ウィリアム・グラッケンズらと新しい芸術をめざす美術家の集団、「The Eight」をつくった。都会の下町や労働者階級の人々の生活を写実的に描く運動は「アシュカン派(アッシュカン・スクール)」を形成した。「アシュカン派」からはスチュアート・デイヴィス、アーサー・ダヴ、ジョセフ・ステラといった画家が生まれた。
1913年にニューヨークなどで開かれた国際展覧会、アーモリーショーに「The Eight」のメンバーとともに出展した。
1906年に、ナショナル・アカデミー・オブ・デザインの会員に選ばれ、1909年からニューヨークのパーソンズ・スクール・オブ・デザイン(後のパーソンズ美術大学)で教えた。自らの美術学校を作り、1912年まで教えた。この時代にヘンライに学んだ学生にはジョージ・ベローズ(George Wesley Bellows)やロックウェル・ケント(Rockwell Kent)、エドワード・ホッパー(Edward Hopper)、レーベン(Norman Raeben)らがいる。1915年から1928年はアート・スチューデンツ・リーグで教えた。
作品
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「サロメ」(1909)
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「青い着物」(1909)
ニューオリンズ美術館蔵 -
Figure in Motion (1913)
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「黒衣の女性」
Fine Arts Museums of San Francisco蔵
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G.V.ホイットニー - 彫刻家
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「日本衣装のエドナ・スミス」
インディアナポリス美術館蔵 -
「雪のニューヨーク」
ナショナル・ギャラリー (ワシントン)蔵 -
Misty effect, Paris (1890)
参考文献
[編集]- ^ Homer, William Innes (1969). Robert Henri and his Circle. Ithaca: Cornell University Press. ISBN 0878173269
- ^ Perlman, Bennard (1991). Robert Henri: His Life and Art. New York: Dover Publications. ISBN 0486267229.
- ^ oxfordindex.oup.com