ワシントン・デューク
ワシントン・デューク | |
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Washington Duke | |
生誕 |
Washington Duke 1820年12月18日 アメリカ合衆国 ノースカロライナ州オレンジ郡 |
死没 |
1905年5月8日 (84歳没) アメリカ合衆国 ノースカロライナ州ダーラム |
職業 |
農夫 実業家 |
著名な実績 |
デューク大学の名祖 タバコ会社「W・デューク・サンズ」創設 |
配偶者 |
Mary Caroline Clinton (結婚 1842年–1847年) Artelia Roney (結婚 1852年–1858年) |
子供 | 5人(ベンジャミン、ジェームズ、ブロディーほか) |
署名 | |
ワシントン・デューク(Washington Duke、1820年12月18日 - 1905年5月8日)は、アメリカ合衆国のタバコ業界の実業家、慈善家である。1865年にタバコメーカー「W・デューク・サンズ」(W.Duke, Sons & Co.)を設立し、1890年には他の企業と合併してコングロマリットのアメリカン・タバコ・カンパニーを設立した。また、南北戦争ではアメリカ連合国海軍で戦った。
若年期
[編集]ワシントン・デュークは1820年12月18日、ノースカロライナ州オレンジ郡東部、現在のダーラム郡バハマで生まれた。テイラー・デューク(1770年頃-1830年)とダイシー・ジョーンズ(1780年頃生まれ)の間の10人兄弟の8番目の子供だった。
デュークは小作人として働いていたが、1842年にメアリー・キャロライン・クリントン(Mary Caroline Clinton、1825年-1847年)と結婚した際、義父から現在のダーラム郡にある72エーカーの土地を与えられ、自作農となった。夫婦の間にはシドニー・テイラー・デューク(Sidney Taylor Duke、1844年-1858年)とブロディー・レオニダス・デューク(Brodie Leonidas Duke、1846年-1919年)という2人の息子がいた。妻のメアリーは1847年に22歳の若さで亡くなった。
1852年に2番目の妻であるノースカロライナ州アラマンス郡出身のアルテリア・ローニー(Artelia Roney、1829年-1858年)と結婚し、妻のために自作農場を建設した。その農場は現存する[1]。アルテリアは1853年から1856年にかけて、娘のメアリー・エリザベス・デューク(Mary Elizabeth Duke、1853年-1899年)、息子のベンジャミン・ニュートン・デューク(Benjamin Newton Duke)とジェームズ・ブキャナン・デューク(James Buchanan Duke、通称バック)の3人を出産した。1858年、長男のシドニーが腸チフスにかかって死亡した。義理の息子であるシドニーを看病していたアルテリアも、その10日後に亡くなった。
南北戦争
[編集]南北戦争前のデュークの政治観については、ほとんど知られていない。しかし、ノースカロライナ州のピードモント地域では、大多数の人々が連邦主義(北軍派)の立場に傾いていた[2]。さらに、この地域の奴隷制の問題に対する考え方は、賛成や反対といった強い感情ではなく曖昧なものであった。「ピードモントのかなりの数の白人は、(奴隷制という)制度に直接関係していたわけではないが、それにもかかわらず、ほとんどが何も考えずにその存在を受け入れていた」[3]という。デュークは、601ドルで購入したキャロラインという名の奴隷を1人所有していたことが知られており、もう1人の奴隷を近所の人から雇って自分の農場で働かせていた[4]。
南北戦争が勃発したとき、デュークは40歳で、南軍への第1回徴兵の対象年齢を上回っていた。しかし、1862年9月に成立した第2次南軍徴兵法により、徴兵対象年齢は45歳に引き上げられた。デュークは、まもなく兵役に召集されることを意識して、1863年10月20日に農機具を全て売り払った。デュークはアメリカ連合国海軍(南軍海軍)に入隊し、サウスカロライナ州チャールストンやバージニア州リッチモンドで従軍したが、1865年4月に北軍に捉えられた。連邦刑務所に入った後、仮釈放されて船でノースカロライナ州ニューバーンに送られ、そこから134マイル(216キロメートル)歩いて家に戻った[5]。
タバコ業界のキャリア
[編集]南北戦争後、デュークは農業をやめ、タバコの製造を始めた。1865年、デュークはトウモロコシ小屋をタバコ工場に改造して最初の会社「W・デューク・アンド・サンズ」(W. Duke and Sons)を設立し、"Pro Bono Publico"(プロ・ボノ・パブリコ、ラテン語で「公共の利益のために」の意味)というブランド名のパイプタバコの生産を開始した[6]。デュークによると、息子のベンやバックとともに、1日に400〜500ポンドのパイプタバコを生産していたという[7]。徐々に会社が繁盛してきたため、1869年には自身の農場内に2階建ての工場を建設した。1874年、デュークは農場を売却し、急速に発展する都市ダーラムに家族を移住させた。デュークと息子たちはダーラムのメインストリートに工場を建設し、それから10年間、自社のタバコを売り込むセールスマンとなった。
1880年、60歳になったデュークは、近くのフランクリン郡の農家であるリチャード・ハーベイ・ライトに事業の株式を売却した。ワシントン・デュークの息子のジェームズが社長を務めるW・デューク・アンド・サンズ社は、やがてタバコメーカーとして大きな成功を収めた。この事業は、1890年頃にアメリカン・タバコ・カンパニーとなった。そして、複数のパートナーの合併や、株式の浮動株化によって、世界最大のタバコメーカーとなった。
会社の株式を売却した後、デュークは、共和党員として地元の政治に関与するようになり、慈善事業に時間を割くようになった[8]。生涯に渡りメソジスト派の信者であり支援者であったデュークは、地元の教会を財政的に支援するとともに、高等教育機関の支援も始めた。デュークは、1890年にメソジスト派の大学であるトリニティ・カレッジをランドルフ郡からダーラムに移転させることに尽力した[9]。1896年、トリニティ・カレッジが財政難に陥っていた時、デュークは「女性に門戸を開き、男性と同等の立場にする」という条件で10万ドルを寄付した[10]。そのお礼として、大学側から校名をデュークにちなんで改名することが申し出されたが、デュークはこれを断った。
ワシントン・デュークは、1905年5月8日にダーラムの自宅で84歳で亡くなった[11]。遺体はダーラムのメイプルウッド墓地に埋葬されたが、後にデューク大学のキャンパス内にある記念聖堂に改葬された。
1910年代、デューク家の人々は、トリニティ・カレッジのためのデューク基金を計画し始めた。1924年12月、ワシントンの息子のジェームズが4,000万ドルのデューク基金の契約書に署名した後、トリニティ・カレッジをワシントン・デュークに敬意を表してデューク大学に改称した。現在、デューク大学の東キャンパスには、ワシントン・デュークの銅像が建っている。
伝記
[編集]- Durden, Robert Franklin, The Dukes of Durham: 1865–1929, Duke University Press, 1975. ISBN 0-8223-0330-2
- North Carolina Historic Sites, North Carolina Department of Cultural Resources Office of Archives & History]
脚注
[編集]- ^ Durden, Robert F. (1975). The Dukes of Durham: 1865-1929. Duke University Press. pp. 4
- ^ Durden, Robert F. (1975). The Dukes of Durham: 1865-1929. Duke University Press. pp. 7
- ^ Brown, David. "North Carolinian Ambivalence." North Carolinians in the Era of the Civil War and Reconstruction. Chapel Hill: U of North Carolina, 2008. 10.
- ^ Durden, 8.
- ^ Durden, 10.
- ^ Durden, 13
- ^ Durden, 14.
- ^ Durden, 19.
- ^ Durden, 93.
- ^ Durden, 100.
- ^ “Mr. W. Duke Died Today”. Raleigh Times (Durham, North Carolina): p. 1. (1905年5月8日) 2021年1月4日閲覧。