ヴァルラム (ユーリヒ伯)
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ヴァルラム Walram | |
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ユーリヒ伯 | |
在位 | 1278年 - 1297年 |
出生 |
1240/5年 |
死去 |
1297年8月 |
配偶者 | マリ-・ド・ブラバン=アールスホット |
子女 | ヴィルヘルム |
家名 | ユーリヒ家 |
父親 | ユーリヒ伯ヴィルヘルム4世 |
母親 | リヒャルダ・フォン・ゲルデルン |
ユーリヒ伯ヴァルラム(Walram, Graf von Jülich, 1240/5年 - 1297年8月)は、ユーリヒ伯ヴィルヘルム4世とゲルデルン伯ゲルハルト4世の娘リヒャルダ・フォン・ゲルデルンとの間の次男である[1]。
生涯
[編集]1278年、ヴァルラムは父ヴィルヘルム4世と兄ヴィルヘルムがアーヘンで殺害された後、父の跡を継いでユーリヒ伯となった。1279/80年までアーヘンの司教であった。ヴァルラムはケルン大司教と対立し、リンブルフ継承戦争ではブラバント公を支援した。1288年のヴォーリンゲンの戦いにおいてケルン大司教ジークフリート2世を捕らえ[2]、大司教に対して優位に立った。また、ツュルピヒなどを獲得し、他の領地も手に入れた。
ヴァルラムは1297年8月20日のフールネの戦いで負傷し、数日後に死去した[3]。
結婚と子女
[編集]1296年、ヴァルラムはブラバン=アールスホット領主ゴドフロワ(アンリ3世の息子)とジャンヌ・ド・ヴィエルゾンの娘マリ-(1278年頃 - 1332年2月25日)と結婚した[4]。マリーはアールスホットとヴィエルゾン両方の相続人であった。ヴァルラムは結婚の翌年に亡くなり、弟ゲルハルトがユーリヒ伯位を継いだ。マリーは1323年にロベール・ド・ボーモンと再婚し、マリーの死後、ヴィエルゾンはヴァルラムの弟ゲルハルトと結婚していたマリーの妹エリザベートの手に渡った。ヴァルラムとマリーの間には以下の子女が生まれた。
- ヴィルヘルム(1297/8年 - 1311年10月31日) - アーヘンの律修司祭
脚注
[編集]- ^ Möller 1995, p. 14.
- ^ Arblaster 2012, p. 81.
- ^ Verbruggen 2002, p. 215.
- ^ Roest 2013, p. 140.
参考文献
[編集]- Arblaster, Paul (2012). A History of the Low Countries. Palgrave Macmillan
- Möller, Walther (1995) (German). Stammtafeln westdeutscher Adelsgeschlechter im Mittelalter. 1. Verlag Degener & Co.
- Roest, Bert (2013). Order and Disorder: The Poor Clares between Foundation and Reform. Brill
- Verbruggen, J. F. (2002). The Battle of the Golden Spurs (Courtrai, 11 July 1302): A Contribution to the History of Flanders' War of Liberation, 1297-1305. The Boydell Press
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