ヴィットーリア・テージ
ヴィットーリア・テージ(Vittoria Tesi、1701年[注 1]2月13日 - 1775年5月9日)は、イタリアのアルト歌手。
ムラート女性として最初に舞台に上がったオペラ歌手だった[2]。
フィレンツェ出身であるためにフィオレンティーナ(la Fiorentina)、またアフリカの黒人の血を引くためにモレッタ(la Moretta)のニックネームで呼ばれた。
生涯
[編集]テージの父はアフリカ系で、トスカーナ大公子フェルディナンド・デ・メディチのお気に入りのカストラートであるフランチェスコ・デ・カストリスに仕えていた[2]。テージははじめフィレンツェでフランチェスコ・レーディに、1715年に一家とともにボローニャに移ってからはフランチェスコ・カンペッジ、ついでアントニオ・ベルナッキに歌を学んだ[2][1]。最初はパルマ公アントニオ・ファルネーゼに庇護され、1731年のパルマ公の没後は短期間トスカーナ大公ジャン・ガストーネ・デ・メディチ、ついでモデナのフランチェスコ3世・デステに仕えた後、最終的にマリア・テレジアとその夫のフランツ(後に皇帝フランツ1世)に仕えた[2]。
テージは1716年にパルマでデビューし[1]、ボローニャ、ドレスデン、マントヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェ、トレヴィーゾ、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ミラノ、ナポリ、ファーノ、フェラーラ、トリノ、ピアチェンツァ、ルッカ、マドリードなどの各地で歌っている。1737年にナポリのサン・カルロ劇場が落成したとき、こけら落としに上演されたドメニコ・サッロ『シーロのアキレス』でタイトルロールのアキレウス役を歌っている[2][3]。1748年にはウィーンで歌い、翌1749年からはウィーンに定住した[2]。
1754年まで歌った記録がある[2]。歌手を引退した後は舞台衣装の監督および教育者として働いた[2]。1775年に肺炎によってウィーンで没した[2]。
テージは男性役と女性役の両方をこなした。カストラートのファリネッリとは親しい友人だった[2]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c Gerhard Croll, “Tesi (Tramontini), Vittoria [‘La Moretta’, ‘La Fiorentina’]”, Grove Music Online, doi:10.1093/gmo/9781561592630.article.27735
- ^ a b c d e f g h i j k Francesco Lora (2019), “TESI, Vittoria, detta la Fiorentina o la Moretta”, Dizionario Biografico degli Italiani, 95
- ^ Achille in Sciro, Corago