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ヴィルヘルム・ゾルフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴィルヘルム・ゾルフ
Wilhelm Solf
生年月日 1862年10月5日
出生地 プロイセン王国の旗 プロイセン王国ベルリン
没年月日 (1936-02-06) 1936年2月6日(73歳没)
死没地 ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
プロイセン自由州、ベルリン
出身校 フンボルト大学
ゲッティンゲン大学
ハレ・ヴィッテンベルク大学
イェーナ大学
所属政党 ドイツ国の旗 ドイツ民主党
配偶者 ハンナ・ゾルフドイツ語版
サイン

在任期間 1920年8月1日[1] - 1928年12月16日

内閣 バーデン内閣
在任期間 1918年10月3日 - 12月13日

内閣 ベートマン・ホルヴェーク内閣
ミヒャエリス内閣
ヘルトリング内閣
バーデン内閣
在任期間 1911年12月20日 - 1918年12月13日

ドイツ領サモア知事
在任期間 1900年3月1日 - 1911年12月19日
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ヴィルヘルム・ハインリヒ・ゾルフWilhelm Heinrich Solf1862年10月5日 - 1936年2月6日)は、ドイツ学者外交官政治家

ドイツ国ドイツ帝国ヴァイマル共和政)で外務大臣駐日ドイツ大使を歴任した。妻ハンナ・ゾルフドイツ語版は夫の死後にゾルフ・サークルドイツ語版を形成し、反ナチ運動を展開した。

生涯

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出自

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1862年にベルリンの裕福なリベラルの家庭に生まれる。ゾルフの祖父は解放戦争に従軍し、ブランデンブルク州ドイツ語版レブースドイツ語版に移住した。父ヘルマン・ゾルフはシュテティーンで商業を営み、1856年にヤーコプ・ヴァッカーナーゲルの従妹アウグスタ・ペータースと結婚する。ヘルマンはカトリック教徒だったが、アウグスタはプロテスタントだった。事業の成功で富を得たヘルマンは、1880年代にアルテンブルクの亜炭鉱山の権利を購入し、6人の子供を全員大学に進学させ教育を受けさせた。さらにドイツ自由思想家党のメンバーとしてベルリン市議会で活動していた。

青年期

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ゾルフはアンクラムギムナジウム(現在のリリエンタール・ギムナジウムドイツ語版)に通うが、母アウグスタはギムナジウムの教育方針に満足しなかったため、1879年にマンハイムカール・フリードリヒ・ギムナジウムドイツ語版に転校させ、1881年に良好な成績を修めて卒業する。卒業後、ゾルフはインド学に興味を抱き、フンボルト大学サンスクリットを、ゲッティンゲン大学ハレ・ヴィッテンベルク大学文献学を学び、1885年冬に文学博士号・哲学博士号を取得する。卒業論文のテーマにはサンスクリットを選び、生涯にわたり研究を続けることになった。

大学卒業後はキール大学の図書館で勤務する。在職中にドイツ帝国海軍に徴兵されるが、兵役検査で医学的理由で不合格となり徴兵を免除された。ゾルフは、仕事の合間を利用してウルドゥー語ペルシア語の研究を行っていた。1888年にはフランツ・キールホルンドイツ語版が著した英語・サンスクリット文法のドイツ語訳を出版した。この著作は、ドイツにおけるインド研究の参考書として広く使用されている。

外務官僚

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領事館職員

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1888年に友人のフリードリヒ・ローゼンに倣いロンドンに行き、インド研究を続ける。ゾルフはロンドン滞在時に外交官のルドルフ・リンダウドイツ語版と知り合い、高い言語スキルを評価され通訳として勧誘される。12月10日に外務省に入省し、1889年1月1日にコルカタのドイツ領事館に赴任する。ゾルフは勤勉さを領事のヘルマン・ゲルリッヒに評価され、5月31日のオットー・フォン・ビスマルク宛ての書簡で、「ゾルフは、通訳よりも高度な職務に対応することができる」と報告している。ゾルフとゲルリッヒは友人関係となり、また開放的な性格だったゾルフは領事館職員の間で人気者となった。

1890年にエドムント・フォン・ハイキングドイツ語版が新しい領事として赴任したが、ゾルフは彼とは相性が悪く、良好な関係は築けなかった[2]。ゾルフは、自身が求めた職務をハイキングに拒否されるなど妨害を受けたため、より高度な職務に就くためのスキルを身に付けようと考え、1891年1月14日に領事館職員を辞職する。辞職したゾルフはイェーナ大学で法学を学び、大学総長ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公カール・アレクサンダーからドイツ植民地帝国の情勢を聞かされる。1896年9月に法学博士号を取得したゾルフは外務省に戻り植民地局に配属される。

ドイツ領サモア知事

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サモア知事時代のゾルフ(1910年)

1897年8月、ドイツ領東アフリカ総督オスヴァルト・フォン・リヒトホーフェンドイツ語版は現地住民の負担軽減の政策を模索していた。ゾルフはドイツ領東アフリカ赴任を求め、翌1898年にドイツ領東アフリカに赴任し、短期間ダルエスサラームの裁判官を務めた。4月上旬にタンガに異動となり、知事エドゥアルト・フォン・リーベルトドイツ語版と良好な関係を築いた。リーベルトは汎ドイツ同盟ドイツ語版に所属して外交政策に精通しており、ゾルフは彼からイギリスベルギー国境地帯の管理を任された。ゾルフは「知事はイギリスを敵と認識している。私はその認識を変えるために全スキルを駆使する」と述べている[3]

1899年にはサモア諸島アピアの暫定自治政府議長を務めた[4]。同年ドイツ領サモアが成立し、1900年3月1日にゾルフは初代知事に就任した。知事時代のゾルフは勤勉で自由主義的な監督者として知られ、「現地の人々の意見に敏感で、総督としては珍しい才能を有していた」と評されている[5][6]。ゾルフはサモアの慣習を政府の統治システムに取り入れ、さらに植林・農業を促進して植民地経済の基礎を整備した[7]。また、公立学校、病院、道路、港湾施設を建設して現地人の雇用を確保したことで、サモアの税収が上がり植民地運営は軌道に乗った。

閣僚

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外務大臣時代のゾルフ(1918年)

知事退任後、ドイツに帰国したゾルフは植民地大臣ドイツ語版に任命され、1912年から1913年にかけてドイツ領東アフリカ南西アフリカカメルーントーゴラントなどの各地を訪問した。1914年春にはヴィルヘルム2世の支持を得てドイツ植民地の紋章ドイツ語版のデザイン作成を進めるが、第一次世界大戦勃発により作成作業は中止に追い込まれてしまい、紋章は公式に使用されることはなかった[8]。大戦末期の1917年から1918年にかけて連合国との講和に向けたロビー活動を行った。また、無制限潜水艦作戦にも反対した。

1918年10月に外務大臣に任命され、連合国との休戦協定締結に向けて交渉した。12月13日にドイツ革命の影響を受け外相を辞任した。ヴァイマル共和政では1920年に駐日ドイツ代理大使に赴任し、翌1921年から1928年にかけてドイツ大使を務め[9]、日独関係の修復に尽力し、1927年の日独通商航海条約締結を実現した。大使を退任してドイツに帰国した後は公職を退き、シュトゥットガルトのドイツ外国研究所の副所長を務めた。

ゾルフはドイツ民主党に入党しパウル・フォン・ヒンデンブルクを支持していた。ナチ党の権力掌握後に党が解散に追い込まれた際には他の党員と共に新しい中道政党の設立を模索したが、ナチ党支配の確立により断念している。

栄典

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外国勲章

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出典

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  1. ^ 『新版 日本外交史辞典』付録 150頁。(臨時代理大使として赴任。正式大使への着任は1921年2月26日より)
  2. ^ Elisabeth von Heyking: Tagebücher aus vier Weltteilen 1886-1904. Leipzig 1926. S. 60 und 83
  3. ^ Alfred Kruck: Geschichte des Alldeutschen Verbandes 1890-1939. Wiesbaden 1954. S. 3
  4. ^ Gray 1960, p. 101.
  5. ^ McKay 1968, p. 18.
  6. ^ Davidson 1967, p. 76.
  7. ^ Davidson 1967, p. 77.
  8. ^ Karaschewski, Jörg. The Emperor's new arms (in German). Der Spiegel, 26 February 2009. Retrieved 12 March 2015.
  9. ^ Chisholm, Hugh, ed. (1922). "Solf, Wilhelm" . Encyclopædia Britannica (英語) (12th ed.). London & New York: The Encyclopædia Britannica Company.
  10. ^ 元在本邦独国特命全権大使ドクトル、ウィルヘルム、ゾルフ叙勲ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113153800 

参考文献

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公職
先代
パウル・フォン・ヒンツェドイツ語版
ドイツの旗 外務大臣
1918年
次代
ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ=ランツァウ
先代
フリードリヒ・フォン・リンデクイストドイツ語版
ドイツの旗 植民地大臣ドイツ語版
1911年 - 1918年
次代
フィリップ・シャイデマン
先代
創設
ドイツ領サモア知事
1900年 - 1911年
次代
エーリヒ・シュルツ=エーヴェルトドイツ語版
外交職
先代
アルツール・フォン・レックスドイツ語版
ドイツ国の旗 駐日ドイツ大使
1920年 - 1928年
次代
ウィルヘルム・アルブレヒト・フォン・ショーンドイツ語版