ヴィルヘルム・フォン・アンハルト=デッサウ
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ヴィルヘルム・フォン・アンハルト=デッサウ Wilhelm von Anhalt-Dessau | |
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出生 |
1807年5月29日 アンハルト=デッサウ公国、デッサウ |
死去 |
1864年10月8日(57歳没) オーストリア帝国、ウィーン |
配偶者 | カロリーネ・エミーリエ・クラウスニッツァー |
家名 | アンハルト=デッサウ家 |
父親 | フリードリヒ・フォン・アンハルト=デッサウ |
母親 | アマーリエ・フォン・ヘッセン=ホンブルク |
ヴィルヘルム・ヴァルデマール・フォン・アンハルト=デッサウ(Wilhelm Waldemar von Anhalt-Dessau, 1807年5月29日 - 1864年10月8日)は、ドイツの諸侯アンハルト=デッサウ家の公子。
生涯
[編集]アンハルト=デッサウ公世子フリードリヒと、その妻でヘッセン=ホンブルク方伯フリードリヒ5世の娘アマーリエの間の末息子として生まれた。1832年、デッサウのヨハンニスシュトラーセ(Johannisstraße)に建つパレ・ボ―ゼを1万3500ターラーで購入し、この屋敷はプリンツ・ヴィルヘルム宮殿(Prinz-Wilhelm-Palais)と改称された[1]。屋敷は後に公爵家の蔵書を収める文庫に転用された。
1840年7月9日、宮廷に仕える楽士カール・フリードリヒ・クラウスニッツァーの娘カロリーネ・エミーリエ・クラウスニッツァー(1812年 - 1888年)と貴賤結婚し、妻は1842年にシュトルツェンベルク男爵夫人の爵位を授けられた。ヴィルヘルムはその後、シュトルツェンベルク男爵の偽名でウィーンに移住し、妻とともにヨハン・シュトラウスの取り巻きサークルの一員となった[2]。
1855年、次兄ゲオルクが貴賤結婚でもうけた娘ヘレーネ・フォン・ライナ女伯爵が、シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯フリードリヒ・ギュンターと結婚することになった際、姪とその配偶者との身分の釣り合いを取るため、ヴィルヘルムがヘレーネを養女にして「アンハルト=デッサウ公女」の称号を名乗らせる方便が採られた。
参考文献
[編集]- Franz Brückner: Häuserbuch der Stadt Dessau, Band 15, Rat der Stadt Dessau, Stadtarchiv, 197?
引用
[編集]- ^ Sächsische Akademie der Wissenschaften zu Leipzig. Historische Kommission: Jahrbuch für Regionalgeschichte und Landeskunde, Band 17, Teil 2, S. 187, Verlag Hermann Böhlaus Nachfolger, 1990
- ^ Österreichische Gesellschaft zur Erforschung des Achtzehnten Jahrhunderts: Das Achtzehnte Jahrhundert und Österreich, Band 12, S. 30, H. Böhlaus, 1989