ヴェイヘロヴォ

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ヴェイヘロヴォ
町役場
町役場
ヴェイヘロヴォの旗
ヴェイヘロヴォの紋章
紋章
ヴェイヘロヴォの位置(ポーランド内)
ヴェイヘロヴォ
ヴェイヘロヴォ
北緯54度36分 東経18度15分 / 北緯54.600度 東経18.250度 / 54.600; 18.250
ポーランドの旗 ポーランド
ポモージェ県
ヴェイヘロヴォ郡
基礎自治体 ヴェイヘロヴォ(都市型自治体)
建設 1643年
町権 1650年
政府
 • 町長 クシシュトフ・ヒルデブラント
面積
 • 都市 25.65 km2
最高標高
110 m
最低標高
24 m
人口
(2020年)
 • 都市 49,505人
 • 密度 1,900人/km2
 • 都市圏
130,000人
等時帯 UTC+1 (中央ヨーロッパ時間)
 • 夏時間 UTC+2 (中央ヨーロッパ夏時間)
郵便番号
84-200から84-204
市外局番 +48 58
ナンバープレート GWE
ウェブサイト www.wejherowo.pl

ヴェイヘロヴォポーランド語: Wejherowo [vɛi̯xɛˈrɔvɔ]カシューブ語:Wejrowò、ドイツ語: Neustadt in Westpreußenノイシュタット・イン・ヴェストプロイセン))は、ポーランド北部のポモージェ県にある町。人口は2006年10月1日の時点で4万7000人。1999年からヴェイヘロヴォ郡の中心地であるが、それ以前(1975年から1999年)はグダニスク県に属した。

歴史[編集]

1643年にマルボルク県のヴォイヴォダヤクプ・ヴェイヘルポーランド王ヴワディスワフ4世の許しを得て建設し、ヴォラ・ヴェイヘロフスカ (Wola Wejherowska) と名づけた。ヴェイヘルはスモレンスク戦争に従軍し、新しい入植地に三位一体と聖アンの2つの教会を建てたほか、フランシスコ会の神父も連れてきて修道院を建て、26軒の礼拝堂から成るヴェイヘロヴォのカルヴァリを創設した。

ヤクプ・ヴェイヘル

1772年の第一次ポーランド分割プロイセン王国に併合され、西プロイセンの新設州に組み込まれた。ドイツ名もヴァイヘルスフライ (Weihersfrei) からノイシュタット・イン・ヴェストプロイセン(Neustadt in Westpreußen、「西プロイセンの新しい町」の意)に改称された。1818年の行政地区の創設とダンツィヒ(グダニスク)=シュテッティン(シュチェチン)間の鉄道開通により町の開発が進み、プロイセンが主導したドイツ統一中の1871年にドイツ帝国の一部となった。19世紀後半にかなりの数のユダヤ人ニューヨーク州シラキュースへ移民したが、そのなかには有名なシューバート家も含まれた。

第一次世界大戦後の1920年にポーランド第二共和国領となり、ポモージェ県とヴェイヘロヴォ郡の中心都市として国の海運本局が置かれた。ポーランド侵攻第二次世界大戦が始まると、ナチス・ドイツによりダンツィヒ=西プロイセン帝国大管区に編入された。ユダヤ系住民のほとんどがナチスに虐殺され、ポーランド系住民もその多くがナチスの殲滅政策の犠牲となった。近くのピアシュニツァ・ヴェルカ村では1939年に1万2000人ものポーランド人が射殺された。1945年のドイツ降伏によってポーランドに復帰し、現在はカシューブ・ポモージェ文学・音楽博物館がある。

人口の推移[編集]

年度 人口
1901年 7200人
1948年 1万3400人
1960年 2万4500人
1970年 3万3800人
1975年 3万7700人
1980年 4万2400人
1990年 4万6800人
1995年 4万7000人
2000年 4万6200人
2005年 4万6900人
2006年 4万7159人
2007年 4万7435人
2011年 4万9922人
2020年 4万9505人

ゆかりの人物[編集]

  • パウル・ニプコウ(1860年-1940年) テレビのパイオニア
  • パウル・ペーテル・ローデ(1871年-1945年) ローマ・カトリック司教
  • キンガ・バラノフスカ(1975年-) 登山家
  • マルツィン・ミオトク(1973年-) 登山家
  • イェジ・ブドニク(1951年-) 政治家
  • ドロータ・マスウォフスカ(1983年-) ジャーナリスト
  • トマシュ・ポル(1968年-) 作家・詩人

姉妹都市[編集]

外部リンク[編集]