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ヴェルトゥ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


Vertou


行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏
(département) ロワール=アトランティック県
(arrondissement) ナント郡
小郡 (canton) ヴェルトゥ小郡
INSEEコード 44215
郵便番号 44120
市長任期 ローラン・ドゥジョワ
2008年 - 2014年
自治体間連合 (fr) ナント・メトロポール
人口動態
人口 21,681人
2011年
人口密度 608人/km2
住民の呼称 Vertavien
地理
座標 北緯47度10分08秒 西経1度28分11秒 / 北緯47.168889度 西経1.469722度 / 47.168889; -1.469722座標: 北緯47度10分08秒 西経1度28分11秒 / 北緯47.168889度 西経1.469722度 / 47.168889; -1.469722
標高 平均:m
最低:1m
最高:56 m
面積 35.68km2 (3 568ha)
Vertouの位置(フランス内)
Vertou
Vertou
公式サイト http://www.mairie-vertou.fr/
テンプレートを表示

ヴェルトゥVertou)は、フランスペイ・ド・ラ・ロワール地域圏ロワール=アトランティック県コミューン

由来

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ブルトン語の地名はGwerzhavまたはGwerzhoùであった。2018年現在、ヴェルトゥでブルトン語は話されていない[1]

地理

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歴史的にブルターニュ地方と、ヴィニョーブル・ナンテーズ(ナント・ワイン)の一部に含まれている。ナントの南東、セーヴル・ナンテーズ川の谷に位置する。

コミューン内は完全に都市化されているわけではなく、一部は農業地帯でミュスカデ・ワインの生産地にあたる。

歴史

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古代、ガリア系部族はロワール川流域に広がっており、その1つアンビラトリ族がこの地に定住していた。ヴェルトゥの名はケルト語源であり、ヴェルトゥの名が初めて記されるのは初期キリスト教時代、ラテン語化されたウェルタウム(Vertavum)としてであった。verはケルト語で川を、tawは平和を意味する。

575年頃、ヴェルトゥのマルタンはこの地に2つの修道院を創設し、聖職者の共同体をおいた。

ロワール川南岸にあたるこの地域はヴァイキングの来襲と略奪の危険にさらされており、バ=ポワトゥー地方守備のためエルボージュ伯爵領が設置された。

9世紀半ばまでに、首長ノミノエ率いるブルトン軍がフランク王国に幾度か勝利して、エルボージュ伯爵領はブルターニュ王国に組み込まれた。

987年、アンジュー伯ジョフロワ1世がナントの南にあたるロワール南岸を獲得し、砦を築いた。アンジュー伯はセーヴル・ナンテーズ川までを勢力下においた。1000年頃、ヴェルトゥで最も重要な修道院の基礎が築かれた。12世紀終わりまで、アンジュー伯はロワール南岸を押さえていた。

1470年から1650年にかけ聖職者たちが行ったモワヌ水道の工事により、セーヴル・ナンテーズ川とロワール川の航行が可能となった。

15世紀、ブルターニュフランソワ2世の要請でブドウ畑がヴェルトゥに広げられた。

フランス革命時代の1793年、ヴェルトゥは革命政府軍とカトリック王党軍の戦いで徹底的に破壊された。

人口統計

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1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2006年 2011年
11 100 12 089 13 853 15 631 18 235 20 261 21 091 21 681

参照元:1999年までEHESS[2]、2000年以降INSEE[3]

交通

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ナント-サント線がヴェルトゥへ通じており、ナント駅から約10分である。ラ・タン社運営のバス路線がナントとの間を往復する。

姉妹都市

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脚注

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  1. ^ Atlas linguistique de la France , Gilliéron, Edmont, 1902-1910
  2. ^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=39606
  3. ^ http://www.statistiques-locales.insee.fr/FICHES/DL/DEP/44/COM/DL_COM44215.pdf