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ヴェルナー・イェーガー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴェルナー・イェーガー(マックス・リーバーマンによるリトグラフィー[1915年])

ヴェルナー・ヴィルヘルム・イェーガーWerner Wilhelm Jaeger, 1888年7月30日 - 1961年10月19日)は、20世紀に活躍した古典学者

略歴・業績

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イェーガーはプロイセン王国ライン県のロベリッヒドイツ語版に生まれた。ロベリッヒの学校とケンペンにあるギムナジウム・トマエウムに通い、マールブルク大学ベルリン大学で学んだ。1911年、アリストテレスの『形而上学』に関する学位論文をもってベルリン大学から博士号を取得。ハビリタチオン論文はエメサのネメシオスに関するものだった(1914年)。弱冠26歳にしてスイスバーゼル大学から招聘され、教授として講座をもつことになった。就任から1年後、キール大学の同様のポストに移動し、1921年に母校のベルリン大学に戻った。イェーガーは1936年までベルリンに留まったが、国家社会主義ナチズム)が勢力を増してきたことに危機感を覚え、同年アメリカ合衆国に移民した。

イェーガーは『Humanistische Reden und Vortraege』(1937年)と『Demosthenes』(1938年)にて、オブラートに包んだ形で抗議の意を示した。なお、後者はカリフォルニア大学バークレー校で1934年に行われたサザー講義に基いている。イェーガーが込めたメッセージはドイツ本国の大学関係者たちには完全に理解され、ナチス・ドイツの熱烈な支持者は激しくイェーガーを攻撃した。

アメリカ移住後のイェーガーは、1936年から39年までシカゴ大学の専任教授を務め、その間の1936年から37年はスコットランドセント・アンドルーズ大学ギフォード講義を行った。その後にハーバード大学に移籍し、第一次世界大戦の前に開始していた教父ニュッサのグレゴリオスについての研究を続けた。イェーガーはその後生涯をマサチューセッツ州ケンブリッジで過ごした。カナダの哲学者ジェームズ・ダウル(James Doull)はハーバードでの教え子の一人である。

イェーガーはアリストテレスの『形而上学』についての学位論文を二部、一つはラテン語で、もう一つはドイツ語で執筆した。イェーガー版の『形而上学』は1957年に出版された。ニュッサのグレゴリオスによる『Contra Eunomium』(1921年、1960年)を編集してからわずか2年後、1923年にイェーガーはアリストテレスについての画期的研究を上梓し、その名を広く知られるようになった。その評価は1960年代に至るまで疑い得ないものであった。イェーガーは学術誌を2冊創刊した。すなわち、『Die Antike』と、影響力をもった書評誌『Gnomon』(1925年-)である。イェーガーは教父ニュッサのグレゴリオスの全集『Gregorii Nysseni Opera』の編集者で、主著『Contra Eunomium』(1921年、1960年)の編集も行った。この版は偉大な学術的業績であり、聖書学の一つカッパドキア三教父に関する研究の文献学的基礎となっている。

イェーガーは数冊からなる著作『Paideia: The Ideals of Greek Culture』の著者として最もよく知られている。同著は古代ギリシャにおける最初期の教育実践と、その文化的本性に関する後世の哲学的反省を考察したものである。この著作によって、イェーガーは20世紀初頭に見られたヨーロッパにおける退廃的状況を改め、ヘレニズム文化に起源をもつ諸価値を回復しようとしたのである。イェーガーの最終講義『Early Christianity and Greek Paideia』(1961年、邦訳1964年)は、彼の生涯にわたる業績をまとめた非常に印象的な作品である。その扱う範囲は幅広く、ほぼ1,000年の歴史をもつギリシャ文献学、ホメロスソクラテス以前の哲学者たち、プラトン、そして幾人かの教父たちの哲学・神学にまで至る。ヴェルナー・イェーガーの論文は、ホートン図書館(ハーバード大学)に所蔵されている。

プラトンとアリストテレスの解釈

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プラトンとアリストテレスの解釈史に関するイェーガーの立ち位置について、ジョンズ・ホプキンズ大学ハロルド・F・チャーニス英語版が明確に要約している。プラトンとアリストテレスの解釈史は、おおまかに言って、下記に示す立場のどれかを支持していると考えられる。(a)アリストテレスはプラトンの初期対話篇・著作に共感し、受容した。(b)アリストテレスはプラトンの後期対話篇・著作に共感し、受容した。(c)先の2つの立場を様々に組み合わせた立場。チャーニスは次のように述べている。「ヴェルナー・イェーガーの見た限りでは、プラトンの哲学は『質料(matter)』なのであり、そこから新しく高度なアリストテレスの思考という形相(form)が生まれ、徐々にではあるが確実かつ着実に発展していったとされる(『Aristoteles』, p. 11)。この解釈は、アリストテレスのプラトン理解が「絶対的無理解(absolut verstandnislos)」だったのかどうかという「古い論争(old controversy)」を呼び起こすものである。だが、このことは、アリストテレス独自の思考パターンが、ある特定のプラトン理解と不整合である、というライゼガングによる再主張を妨げるものではなかった」[1]。ここでチャーニスは、イェーガーとライゼガングが反対の立場にあり、ライゼガングはプラトンとアリストテレスを上記(a)もしくは(b)の立場によって調停する可能性があることについて共感的ではなかったと考えている。

著作

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出典

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  1. ^ Cherniss, Harold (1962). Aristotle's Criticism of Plato and the Academy," Russell and Russell, Inc., p. xi.

外部リンク

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