ヴォルホフ戦線
ヴォルホフ戦線(ロシア語: Волховский фронт、ヴォルホフ方面軍、もしくはヴォルホフ正面軍とも)は、第二次世界大戦中(独ソ戦初期と中期)に2度に渡りソ連北西部に設置された赤軍の方面軍級部隊である。
ヴォルホフ戦線(1941年12月~1942年4月)
[編集]最初のヴォルホフ戦線は、1941年12月17日、レニングラード戦線左翼部隊と最高司令部スタフカ予備(第4軍、第26軍、第29軍、第52軍、第59軍、第2打撃軍)に基づき創設された。ヴォルホフ川左岸に位置する敵の撃破と、レニングラード戦線との協同によるレニングラードの封鎖解除を任務とした。1942年1月~2月、リュバン方面で激戦を繰り広げた。
1942年4月23日、4月21日付スタフカの命令により、ヴォルホフ作戦集団に改編され、レニングラード戦線に編入された。
編制
[編集]- 第4軍
- 第26軍
- 第29軍
- 第52軍
- 第59軍
- 第2打撃軍
指揮官
[編集]- 司令官:キリル・メレツコフ上級大将(1941年12月~1942年4月)
- 軍事会議議員:アレクサンドル・ザポロージェツ一等軍委員(1941年12月~1942年4月)
- 参謀長:G.ステリマフ旅団長(1941年12月~1942年4月)
ヴォルホフ戦線(1942年6月~1943年10月)
[編集]2度目のヴォルホフ戦線は、1942年6月9日、ヴォルホフ作戦集団(第2打撃軍、第4軍、第8軍、第52軍、第54軍、第59軍)に基づき創設され、同年8月、第14航空軍が編成された。1942年8月~9月、レニングラード戦線と協同で、シニャヴィン作戦を行い、レニングラード攻撃を準備していた敵を撃破した。
1943年1月、レニングラード封鎖突破(イスクラ作戦)の際、ヴォルホフ戦線右翼部隊は、ラドガ湖南方の強力な敵の防衛線を突破し、レニングラード戦線の第67軍と会合して、レニングラードとの地上連絡を保障する回廊を開設した。シニャヴィン・ムギン方面で攻勢を継続しつつ、戦線部隊は、レニングラード攻撃を準備していた敵を撃破した。
1944年1月~2月、ノヴゴロド・ルガ作戦を行ってノヴゴロドを解放し、レニングラード戦線、第2沿バルト戦線、赤旗バルト艦隊と協同で、ドイツ北方軍集団を撃破した。2月2日、第2沿バルト戦線から第1打撃軍を増強される。
1944年2月15日、2月13日付スタフカの命令により、ヴォルホフ戦線は解散され、その部隊は、レニングラード戦線と第2沿バルト戦線に移管され、指揮機関はスタフカ予備となった。
編制
[編集]- 第2打撃軍
- 第4軍
- 第8軍
- 第52軍
- 第54軍
- 第59軍
- 第14航空軍 - 1942年8月創設
- 第1打撃軍 - 1944年2月2日、第2沿バルト戦線から配属
指揮官
[編集]司令官:
- キリル・メレツコフ上級大将(1942年6月~1944年2月)
軍事会議議員:
- アレクサンドル・ザポロージェツ一等軍委員(1942年6月~10月)
- レフ・メフリス軍団委員(1942年10月~1943年3月)
- テレンチー・シュトィコフ少将(1943年4月~1944年2月)
参謀長:
- G.ステリマフ少将(1942年6月~10月)
- M.シャローヒン中将(1942年10月~1943年6月)
- F.オゼロフ少将(1943年6月~1944年2月)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 60 лет Победе(ロシア語。戦勝60周年に宛てられたロシア国防省公式のHP)