コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ヴワディスワフ・ホルディンスキー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴワディスワフ・ホルディンスキー
Władysław Hordyński
生誕 (1908-03-01) 1908年3月1日
ジェシュフ
死没

1968年1月4日(1968-01-04)(59歳没)

[注釈 1]
クラクフ
職業 図書館員
受賞 功労十字章英語版 (1954年)
テンプレートを表示

ヴワディスワフ・ホルディンスキー (Władysław Hordyński、1908年3月1日 - 1968年1月4日) は、ポーランドの図書館員で、クラクフにあるヤギェウォ図書館音楽部門長、上級認定学芸員である[1]

青年時代

[編集]

ヴワディスワフ・ホルディンスキーは、中学校教師でリヴィウ工科大学英語版数学科教員のルドヴィク・ホロディンスキーと、旧姓ヤトヴィガ・ヴァルチャックの息子であった。彼は生涯のほとんどをクラクフで過ごした[2]。1926年、彼はヤギェウォ大学哲学科に入学した。ポーランド学を専攻したが、2年後にズジスワフ・ヤヒメツキ英語版に師事し音楽学を学び始め、1939年にポーランドの作曲家ユゼフ・ヴワディスワフ・クログルスキ英語版の生涯とピアノ作品をテーマにした論文で音楽学の修士号を取得した。

学生時代から彼はヤギェウォ大学の音楽学図書室で仕事をした。1930年からはヤギェウォ図書館で、最初はボランティア、1936年からは職員として働くようになった。同年彼は図書館司書の試験に合格した[2]

ヤギェウォ図書館で働き始めた最初から、彼は音楽コレクションの管理に取り組み、生涯を音楽コレクションに捧げた。旧来の方法で目録をとり体系化されていた音楽コレクションは、徹底的に研究しなおす必要があった。[要出典]

戦争期

[編集]

第二次世界大戦中、彼はルーマニアブカレストに住んでいた。ルーマニア・アカデミーの図書館で音楽資料 (音楽部門のための指示も作成) に携わった。それに加え彼は音楽院の図書館や、ブカレストのビザンチン学フランス研究所の図書館の仕事もした。彼は滞在中にルーマニア・アカデミー図書館所蔵資料から、15世紀から18世紀までのポーランド研究目録を作成した (ヤギェウォ図書館月報6号と8号、1953年に掲載)[3]

戦争後

[編集]

1945年8月に帰国すると、彼は直ちにヤギェウォ図書館音楽部門に復帰した[3]。また貴重書閲覧室の管理も担当した。1958年には音楽部門長および写真撮影部門長となり[3]、1964年には上級認定学芸員になった。彼は写真撮影部門の近代化に多大な尽力をした。彼の30年に及ぶ専門業務の中で、音楽コレクションは4倍になり、その目録が作成され、数多くの音楽文献が編纂され、参照コレクションが整備され、レコードコレクションが開設された。ホロディンスキーは何人もの図書館員や学生の育成にも尽力した。

彼は生涯にわたって音楽図書館の課題に取り組み、国内外の同僚たちと経験を分かち合った。彼の仕事は学術的かつ専門的であり、両方の課題に同様に取り組んだ。1948年に彼はポーランド学術アカデミー英語版の音楽委員会委員長に任命され[3]、また科学評議会とフレデリック・ショパン協会音楽部門のメンバーでもあった。1949年のショパン年には展覧会を企画し[3]、関連する資料を入手するためフランスを訪れた。戦後の彼はショパンに関する資料を多く出版し[3]、そこにはショパンがチチョスキに宛てた未公開書簡や、長い間失われたと考えられていた「ムーアの民謡風な歌による変奏曲ニ長調」もあった。彼はポーランド人名事典英語版の著者でもあった。

1954年、彼は職業上の業績により、功労十字章英語版を受賞した[3]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 『ペイパーチェイス』p231によると、1969年の『ヤギェウォ図書館通信』には、1968年1月4日にヴワディスワフ・ホルディンスキーが、思いがけず亡くなったことが記録されている。

脚注

[編集]
  1. ^ Hordyński, Piotr (1969). “Władysław Hordyński (1908-1968)”. Biblioteka Jagiellońska, 3304 IV czasop.. https://jbc.bj.uj.edu.pl/dlibra/publication/291163/edition/278550. 
  2. ^ a b 『ペイパーチェイス』白水社、1986年、235頁。 
  3. ^ a b c d e f g 『ペイパーチェイス』白水社、1986年、236頁。 

参考文献

[編集]