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丁黙邨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
丁黙邨
プロフィール
出生: 1903年光緒29年)[1]
死去: 1947年民国36年)7月5日
中華民国の旗 中華民国南京市
出身地: 清の旗 湖南省常徳府武陵県
職業: 特務・政治家
各種表記
繁体字 丁默邨
簡体字 丁默邨
拼音 Dīng Mòcūn
ラテン字 Ting Mo-ts'un
和名表記: てい もくそん
発音転記: ディン モーツン
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丁 黙邨(てい もくそん、1903年 - 1947年7月5日)は、中華民国の特務・政治家。特工総部(ジェスフィールド76号)の指導者として知られ、南京国民政府(汪兆銘政権)に属した。

事跡

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1921年秋に中国共産党施存統と知り合い、社会主義青年団(後の中国共産主義青年団)に入る。1924年に中国国民党に入党、CC団に属し、上海の文化界で活動し、『社会新聞』の主編となった。このとき、李士群唐恵民が同僚になっている。私立江南学院学長、国民政府秘書を歴任した後、1934年民国23年)に、軍事委員会調査統計局第3処(郵伝検査処)処長に任ぜられた。この頃には、丁黙邨は戴笠康沢中国語版と並び称される特務のリーダーになっていたとされる[2]1938年(民国27年)、軍事委員会少将参議に転任し、武漢特別市政府参事、同政府秘書長などを歴任した。

同年冬、丁黙邨は、李士群ともに日本軍が占領する上海へ赴き、土肥原機関と接触、親日特工隊を組織した。翌年5月、汪兆銘(汪精衛)派の国民党で中央執行委員・常務委員に任命された。さらに中央社会部部長、中央特務委員会副主任委員、特工総部主任も兼ねている。しかし、汪腹心の立場を利用する李が「公館派」の一員として次第に台頭し、丁を凌駕する権勢を有するようになる。丁は羅君強とともに、周仏海率いる「CC派」の幹部であったため、周は次第に李に対して不満を抱いたとされる[3]

1940年(民国29年)3月、南京国民政府が正式に成立すると、中央政治委員会委員、軍事委員会委員、行政院社会部部長に任命された。翌年8月、交通部部長に転じる。1943年(民国32年)、社会福利部部長となる。1945年(民国34年)5月、浙江省省長、省保安司令、省党部主任委員、駐杭州綏靖公署主任の各職を兼任した。

日本敗北後、いったんは蔣介石の国民政府に再任用され、浙江地区軍事専員となった。しかし9月に、結局は漢奸として逮捕されてしまう。

1947年(民国36年)2月、丁黙邨は死刑判決を受け、同年7月5日に南京で処刑された[4]。享年45。

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  1. ^ 『最新支那要人伝』は1901年(光緒27年)とするが、本記事は徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』、鄭仁佳「丁黙邨小伝」、劉傑『漢奸裁判』に従う。
  2. ^ 『最新支那要人伝』155頁。
  3. ^ 劉傑『漢奸裁判』、135-136頁。
  4. ^ 劉傑同上、276頁。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 鄭仁佳「丁黙邨小伝」『伝記文学』ホームページ(台湾、要繁体字フォント)
  • 劉傑『漢奸裁判 対日協力者を襲った運命』中央公論新社、2000年。ISBN 4-12-101544-4 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 

関連項目

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  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
(創設)
社会部長
1940年3月 - 1941年8月
次代
〔不明〕
先代
諸青来
交通部長
1941年8月 - 1943年1月
次代
(建設部に吸収合併)
先代
(社会部を改組?)
社会福利部
1943年1月 - 1945年5月
次代
〔不明〕
先代
項致荘
浙江省長
1945年5月 - 1945年8月
次代
(廃止)