コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

七変人評論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『七変人評論 』(しちへんじんひょうろん)は、豫備門時代の正岡子規と友人ら合計7人が、自らを「七変人」と称し、互いの評論をまとめた冊子である。正確には『七変人評論 第一編』と冊子の表紙にある。冊子と「七変人」について記述する。

冊子

[編集]

正岡子規とその親しい仲間、合計7人が集まって、互いの評論やいくつかの競技における評価を出し合ったのは、1886年(明治19年)1月29日、子規が冊子にまとめたのは翌日である [1][2]。7人は豫備門、後の第一高等学校の一年生であった。

冊子には、附録として「七変人遊戯競」が記してある。

七変人

[編集]

七変人を、長幼の順に示す。

關 甲子郎 陸奥人
菊池謙二郎 常陸人
井林 廣政 伊予人
正岡 常規 同
秋山 真之 同
神谷豊太郎 紀伊人
清水 則遠 伊予人

正岡は子規の号を用いる前であるが、子規として示す。子規、秋山、清水は、幼馴染、井林は伊予大洲の出身で以前からの知合いである。菊池は、明治17年、共立学校の同級から、子規と二人だけ豫備門に合格、子規は東京で得た最も古い友人としている。明治18年、子規と菊池は共に落第、後から進学して来た他の友人と同級になっている。

井林・神谷は南方熊楠と親しく、南方熊楠顕彰館が、この年の熊楠渡米の送別会前の井林・神谷・熊楠らの写真を示している[3]。 熊楠が伊予大洲の士族と記している[4]

神谷は熊楠と同じ和歌山出身のため、熊楠が神谷を介し、さほど親しくはないが、子規を知り、熊楠は、神谷が子規・秋山等と七人組とか称し毎夜寄席に通っていたと言ったとされる[5]。 神谷は後に、第五高等学校で夏目漱石の同僚となり[6]謡を教える[7]

明治18年夏、子規の帰省中に箱根へ脚気の療養に行った清水に井林、菊池が同行、子規が清水へ書簡を送り、松山の鯛料理を絶賛、「殊に菊池兄に至てハ此天地に生を受ケ」て以来その味を知らず、之を食はしめは一嘗三嘆のみならざるべし」[8]とし、菊池を一嘗三嘆のだしにしている。

明治19年4月14日午後1時40分頃、清水、脚気により死去、翌日の葬儀の喪主は子規。死去時、伊林・子規と同宿[9]

その後

[編集]

明治22年、子規の「筆まかせ」の「交際」[10]にある友人を示す。19人中の記載順に番号を振り、子規の形容、原文にある尊称と名の最初文字は略し、苗字を示す。

  • 7 厳友 菊池 12 温友 神谷 13 剛友 秋山 16 亡友 清水

脚注

[編集]
  1. ^ 松山市立子規記念博物館「デジタルアーカイブ・七変人評論 第一編」 以下、原則として同資料に基づく。
  2. ^ 国立国会図書館 デジタルコレクション 秋山真之会編『秋山真之』1933
  3. ^ 南方熊楠顕彰館、『南方熊楠全集』9巻(平凡社)口絵、『南方熊楠アルバム』(八坂書房)p41下
  4. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション 南方熊楠『南方随筆』1926
  5. ^ 中瀬喜陽『南方熊楠を知る辞典』ウェブサイトがあるが、Wikipediaの基準未満の可能性がありリンクは行わない。
  6. ^ 国立国会図書館『職員録 明治32年(甲)』
  7. ^ 玉村恭 「人はなぜ謡の稽古に熱中するのか―夏目漱石と能 再考~稽古の現象学Ⅳ」上越教育大学研究紀要
  8. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『子規全集』より「子規遺稿 子規書簡集」
  9. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション正岡子規『子規全集 第8巻 (少年時代創作篇)』「筆まかせ」より「清水則遠氏」 アルス 大正14
  10. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション 正岡子規『子規全集 第8巻 (少年時代創作篇)』アルス 大正14