七州城
七州城 (愛知県) | |
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別名 | 挙母城 |
城郭構造 | 平山城 |
築城主 | 内藤学文 |
築城年 | 天明2年(1782年) |
主な城主 | 内藤氏 |
廃城年 | 明治4年(1871年) |
遺構 | 石垣 |
指定文化財 |
豊田市指定史跡 「挙母城(七州城)隅櫓跡」[1] |
位置 | 北緯35度04分49.33秒 東経137度09分02.48秒 / 北緯35.0803694度 東経137.1506889度座標: 北緯35度04分49.33秒 東経137度09分02.48秒 / 北緯35.0803694度 東経137.1506889度 |
地図 |
七州城(しちしゅうじょう)は、愛知県豊田市小坂本町付近にあった日本の城。「七州城」の呼称は通称であり、正式には「挙母城」(ころもじょう)という。1782年(天明2年)に築城され、挙母藩の藩庁が置かれた。遺構の一部(隅櫓跡)が「挙母城(七州城)隅櫓跡」として1972年(昭和47年)2月24日付け(桜城の隅櫓跡と同日付け)で豊田市指定史跡に指定されている[1]。
概要
[編集]挙母には、鎌倉時代の1309年に中條景長によって金谷城が築かれたが、戦国時代に今川氏、後に織田氏に攻略され、江戸時代初期である1604年に三宅康貞が1万石で入封した。康貞は城の破損が著しいことから、金谷城から1キロメートルほど北に陣屋を構え、桜の木を植えたことから俗に桜城といった。寛延2年(1749年)、内藤氏が城の改修を計画し着手したが、矢作川の氾濫により何度も被害を受けたため、桜城から高さ65メートルほどの丘である童子山に移し、「三河国」「尾張国」「美濃国」「信濃国」「伊賀国」「伊勢国」「近江国」の7つの国が見える高台にあることから、「七州城」といった[2]。
遺構
[編集]明治以降は学校敷地となり、一部が豊田市立童子山小学校(移転)や愛知県立豊田東高等学校(移転)として利用され、現在は豊田市美術館及び豊田市博物館(郷土資料館と近代の産業とくらし発見館を統合して、2024年4月26日開館[3])の敷地と城跡公園として整備されている。
遺構としては、豊田市美術館敷地内に櫓台の石垣が残り、1977年(昭和52年)に隅櫓が復興されている[4]。隅櫓に隣接する書院は「又日亭」(ゆうじつてい)といい、明治まで寺部城の城内にあった書院である。明治年間に千足町の竜寿院に移築され、その後解体される予定であったが、1977年(昭和52年)の隅櫓再建とともに、豊田市によって現在地に移築された[5]。また、挙母祭りの山車蔵に、城の建物の解体部材を転用したものがある。
その他、豊田市内の個人宅に、蔵を移築したものと伝承のある建物が現存している。
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ a b “豊田市の文化財(指定・登録・選定)”. 豊田市公式HP. 2022-006-22閲覧。
- ^ 渡辺善次「三河挙母七州城沿革小史」愛知県郷土資刊行会、1985年、181頁。
- ^ 豊田市新博物館
- ^ 茶室|豊田市美術館 (Toyota Municipal Museum of Art)
- ^ 挙母城(七州城) / 帝國博物学協会 三河國
外部リンク
[編集]- 奈良 平安時代・鎌倉 室町時代・戦国時代・江戸時代(とよたの起源)(豊田市サイト とよたの起源内)
- 挙母城(七州城)の歴史 - 名古屋刀剣ワールド
- 挙母城址(七州城)の天気 - 日本気象協会
- 挙母城(七州城) - あいち歴史観光