三ツ木秀治
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三ツ木 秀治 | |
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所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1902 - 1930 |
最終階級 | 陸軍少将 |
除隊後 | 実業家 |
三ツ木 秀治(みつぎ ひではる、1879年(明治12年)9月30日 - 1952年(昭和27年)1月15日[1])は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍少将。 予備役後は京豊自動車工業社長などを勤めた。
生涯
[編集]福島県出身。旧姓東海林。三ツ木家の養子となる。陸軍士官学校13期を卒業し、1902年(明治35年)少尉任官。兵科は輜重。中村孝太郎、建川美次、福井重記などが同期生である。日露戦争に出征し、輜重兵第8大隊附[2]、技術審査官、自動車隊附、陸軍省砲兵課員、仙台輜重兵大隊長、陸軍自動車学校教育部長などを歴任。フランス留学の経験を持つ。1930年(昭和5年)3月6日、少将へ昇進し同月25日に予備役となる。
その後は自動車関連の実業家となる。三ツ木が社長を務めた京豊自動車工業は、京三製作所が協力関係にあった豊田自動織機らと共同出資し、1934年(昭和9年)に設立した自動車会社である[3]。他に自動車部品製造専務、自動車工業取締役などを兼任した。稚松会会員。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]。
脚注
[編集]- ^ 参考文献『日本陸軍将官辞典』697頁。
- ^ 『稚松会会誌』
- ^ 株式会社 京三製作所 京三号伝説 京三号ヒストリー 2012年5月7日閲覧
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」84頁。
参考文献
[編集]- 帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京篇』(第13版、1939年)
- 太平洋戦争研究会 『日本陸軍将官総覧』PHP出版
- 『財団法人 稚松会名簿』(1937年12月発行)
- 『稚松会会誌』(1912年3月発行)
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。