三井高泰
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(三井守之助から転送)
三井 高泰(みつい たかやす、1875年(明治8年)1月13日 - 1946年(昭和21年)12月15日)は、日本の実業家。芝浦製作所(現東芝)会長や、三井物産社長を務めた。別名・守之助。三井永坂町家7代当主。
人物・経歴
[編集]東京出身。三井伊皿子家当主三井高生(1843-1914)の三男で、鳥居坂家(三井永坂町家)6代当主・三井高潔(三井篤次郎、三井物産社長)の養子。妻は住友家当主・住友友親の娘で住友友純養妹の楢光。三井高寛や三井高信は兄。横浜商業学校卒業[1]。1899年三井物産船舶課(のちの三井船舶)課長[2]。1904年芝浦製作所(現東芝)会長[3][4]。1909年三井銀行取締役[5]。1921年から三井物産社長を務めたが[6]、池田成彬三井合名理事による改革で1934年に退任させられ、専門の役員と交代した[7]。1945年の東京大空襲では麻布永坂町の自宅が焼失した[8]。1946年死去[4]。
脚注
[編集]- ^ 「三井守之助 (男性)」『人事興信録』データベース(名古屋大学)
- ^ 大阪商船三井船舶(株)『創業百年史. 資料』(1985.07)渋沢社史データベース
- ^ 三井 高泰(読み)ミツイ タカヤス20世紀日本人名事典の解説
- ^ a b 「三井高泰(読み)みつい たかやす」デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
- ^ 「(株)三井銀行『三井銀行五十年史』(1926.09)」渋沢社史データベース
- ^ 「三井物産(株)『挑戦と創造 : 三井物産一〇〇年のあゆみ』(1976.07)」渋沢社史データベース
- ^ 宇田川勝 財閥の改革者―結城豊太郎と池田成彬法政大学
- ^ 第45回 石橋正二郎(その二) 陸軍も海軍もタイヤを欲した―石橋と鳩山を結んだ大戦の「緊迫」とは現代ビジネス
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