三城七騎籠り
三城七騎籠り(さんじょうななきごもり)とは、今道純近(純周)、大村純辰、朝長純基、朝長純盛、藤崎純久、宮原純房、渡辺純綱の武将ら7人、またその三城城守備戦を指す名称である[1]。三城七騎籠、「三城七騎籠の戦い」[2]とも呼ばれる。
経緯
[編集]乾馬場町付近の大村館に居してきた大村家は、1564年(永禄7年)、大村純忠の代に三城城(さんじょうじょう)を築くと純忠自ら入り、大村家の居城とした[3][4]。しかし、純忠がキリシタンとなった事で部下の心が離れ、城主の実兄の後藤貴明に情報を流す者がたびたび現れた。貴明自身も純忠に不満を抱いていたといい、1572年(元亀3年)、三城城へ貴明や松浦隆信、西郷純堯らが率いる約1500の軍が奇襲を掛ける[5][1]。迎え打つ城内には当時、兵や妻子を合わせても70〜80人ほどしかいなかったという[5]。
三城城の戦い
[編集]松浦軍の撤退
[編集]西郷軍への襲撃
[編集]今道純近と大村純辰、藤崎純久、宮原純房、渡辺純綱は今道越後守ら16人を率いて城の裏門の守備にあたっており、連合軍が攻めてくると背後を押さえて完全包囲に成功した[6]。また、城主純忠に仕える富永忠重や援軍の朝長純盛は、まるで敵方の純堯軍の味方に転じたように見せかけて兵を進めると、そのまま西郷軍の総大将・尾和谷軍兵衛(馬場権平)の陣を襲撃して戦線を割った。この作戦により西郷軍は大混乱に陥り撤退した[6]。
大手の守備
[編集]後藤軍の撤退
[編集]純忠の作戦により三城城を落とす事ができなかった後藤貴明]は不利を感じて兵を引いた。こうして大村方は三城城の戦いで攻城に成功した[5][6]。
戦後
[編集]この1572年の戦いの後に、大村方に長岡純生や朝長常進なども参画し、また、いったんは貴明に付いた内応者らも、のちに純忠の元へ戻ったという[要出典]。
人物
[編集]三城城主
[編集]三城七騎籠り
[編集]大村方に味方した武士
[編集]後藤軍
[編集]松浦軍
[編集]西郷軍
[編集]- 西郷純堯
- 官途は石見守。後藤貴明らの要請に応じて三城城へと攻め込むが、富永忠重らの軍により#総大将の軍が混乱したため、撤退
- 志佐純意
- 志佐純次の子。官途は壱岐守[疑問点 ]
- 尾和谷軍兵衛
- 西郷軍の総大将。この戦いで戦死
脚注
[編集]- ^ a b 吉永 2006, pp. 273–276, 「九州戦国合戦記年表」.
- ^ 吉永 2006, 「三城七騎籠の戦い」.
- ^ “三城城(さんじょうじょう)”. ニッポン城めぐり. 2023年4月22日閲覧。
- ^ “三城城跡 (サンジョウジョウアト)”. ながさき旅ネット. 2023年4月22日閲覧。
- ^ a b c “三城城 三城七騎籠による三城城の戦い”. お城解説「日本全国」1300情報【城旅人】. 2023年4月22日閲覧。
- ^ a b c d e “戦国西肥前国人名辞典”. 戦国武将録. 2023年4月22日閲覧。
参考文献
[編集]本文の典拠。主な執筆者、編者の順。
- 吉永正春「三城七騎籠の戦い」『九州戦国合戦記』(増補改訂版)海鳥社、2006年。 NCID BA78178977。 「九州戦国合戦記年表」273-276頁。