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三好晃二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三好晃二
みよし こうじ
出生地 日本の旗 日本 愛媛県伊予郡広田村
没年月日 2010年8月20日
死没地 愛媛県松山市
前職 広田村議会議員
所属政党 無所属

当選回数 3回
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三好 晃二(みよし こうじ、 - 2010年(平成22年)8月20日)は、愛媛県伊予郡広田村長を務めた政治家である。広田村は平成の大合併にて伊予郡砥部町と合併[1]、閉村となったため、最後の村長。広田村(現在の砥部町)出身。2010年(平成22年)8月20日病没、78歳。

経歴

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1983年(昭和58年)から広田村議会議員を務め、この間、1986年(昭和61年)に副議長を、1989年(平成1年)に議長をそれぞれ1年務めた。1990年(平成2年)2月 全国町村議会議長会会長表彰を受ける。その後1991年(平成3年)4月に広田村長選挙に出馬、初当選。間を挟み砥部町との1町1村にて合併する2004年(平成16年)12月まで通算3期務めた。砥部町との合併協議会では副会長を務め、新町における町長選出までの職務執行代理者も務めた[2]

2010年(平成22年)8月20日松山市内の病院にて病没、78歳。

村長選挙の経過[3]

過去の同村の村長選では現職の対抗馬として村議会議員が立候補し、村が二分される構図が繰り返されてきた。

  • 1991年(平成3年)4月16日告示村長選挙にて初当選
当選 三好晃二 847票
落選 福岡榮一 173票
  • 1995年(平成7年)4月18日告示村長選挙にて落選
当選 肥田禎之 530票 村議会議長
落選 三好晃二 506票
  • 1999年(平成11年)4月20日告示村長選挙 前回と同じ顔触れの再戦にて返り咲き当選
当選 三好晃二 517票
落選 肥田禎之 462票
  • 2003年(平成15年)4月22日告示町長選挙、再選。
当選 三好晃二 503票
落選 水本利勝 454票  村議会議員

主要施策

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町村合併

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任期最後に平成の大合併問題に直面。

広田村は山村であり、しかもその位置関係や交通事情からどの自治体の組み合わせにしても「周辺」であることは避けがたい状況であった。三好としては、合併により周辺部が顧みられなくなるのではないかとの懸念からこの市町村合併には前向きでなかった。[4]しかしながら、国が「平成の大合併」の旗を振り、加えて当時の愛媛県知事の加戸守行は行財政効率化の観点から強力に推進しており[5]、国や県に対して反旗を翻し人口1100人あまり[2]の村として孤高を守っていくのも現実的ではなかった。やがて、愛媛県下各地で市町村合併の議論が沸き起こり、それらが伝わり村民の間でも合併は不可避なのではないかとの空気が広がり、村議会でも多数を占めるようになっていった。

こうした事情から、北隣で交通軸を同じくする砥部町と行動を共にするのが最善の策といえた。一方、パートナーである砥部町のスタンスも揺れ動き、また南に隣接する小田町の意向もあり、なかなか合併の枠組み(市町村の構成)が定まらない時期もあったものの、結果として砥部町との1町1村の小規模な合併に落ち着いた。新町における議会定員をめぐる議論(端的に言えば広田村地域への定数割り当てが少ないのではないかとの主張)もあった[2]が、人口差が大きく現実的に折り合わざるを得ないことから、合併協議そのものは比較的スムーズに運んだ。

脚注

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  1. ^ 形態としては新設合併。
  2. ^ a b c 愛媛県『愛媛県市町村合併誌』2006年3月
  3. ^ 広田村『広田村誌』1986年3月刊
  4. ^ この経緯は市川虎彦の『地方中核都市をめぐる市町村合併―松山市周辺の市町村合併』松山大学論集第34巻第2号(2022年6月発行)に所収に詳しい。なお、この論文は表題のとおり松山市を中心とした平成の大合併の経緯とその評価を首長のスタンスと住民の評価(併合地域と被併合地域との差異)を軸に論じたものであり、砥部町・広田村の合併のみを論じたものではない。
  5. ^ 広田村が関係する市町村合併の組み合わせとしては、愛媛県が2001年2月に「愛媛県市町村合併推進要綱」にて、「基本パターン」として伊予市・伊予郡全体の1市4町1村を、「参考パターン」として、小田・広田・中山・内子・五十崎(市町村コードの順)の4町1村の組み合わせを示していた。

参考文献

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  • 広田村『広田村誌』1986年3月刊