コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

三山 (京丹後市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三山
三山跡地の碑
三山跡地の碑
三山の位置(京都府内)
三山
三山
北緯35度43分16.4秒 東経135度10分18.2秒 / 北緯35.721222度 東経135.171722度 / 35.721222; 135.171722
日本の旗 日本
都道府県 京都府
市町村 京丹後市
大字 丹後町三山
郵便番号
627-0102(変更)

三山(みやま)は、京都府京丹後市丹後町宇川地域の廃村地名。1974年(昭和49年)に当時居住していた全12戸が集団で京丹後市丹後町三宅に移住することなり廃村となった。住民が移転の手配を当時の丹後町と直接相談・交渉を重ね、集団移転を成功させた。2004年(平成16年)京丹後市移行後の大字は「丹後町三山」。

地理

[編集]

鞍内の東南方、宇川中流の右岸で、その支流である三山川沿いの谷間、標高150メートル前後に位置した[1]関西電力小脇水力発電所から約300メートル東へ遡った渓谷にあり[1]丹後町竹久僧の北、碇高原の手前に位置する[2]

集落内を東から西へと三山川が流れる[3][4]。三山川の川幅はおおよそ12メートル、平均水位は30センチメートルで、最高水位120センチメートル、最低水位20センチメートル[5]。流路延長は4,200メートルあり、流域面積は0.45平方キロメートル[5]

歴史

[編集]

沿革

[編集]

文献にみえる三山の記録は、徳川2代将軍秀忠の時代に『宮津旧記』に記載された宮津藩主阿部対馬守知行村々草高帳に、「三山村 百石七斗弐升」とあるのが知られている最古と思われる[6]

1968年(明治元年)、他10村とともに上宇川村に統合された[7]

1896年(明治29年)、小脇竹久僧とともに3集落で学区を組織し、三山に上宇川第二尋常小学校が開校する[8][9]。しかし1904年(明治37年)にはさらに鞍内集落を加えた4集落で校区を再編し、1905年(明治38年)には虎杖小学校の場所に新築した分校校舎に通うこととなった[10]

1957年(昭和32年)、三山に電話架設が行われる[11]

1959年(昭和34年)11月、国庫の補助を受け、伏流水の自然流下で送水する簡易水道施設が竣工された[12]

1963年(昭和38年)の三八豪雪では約6メートルの積雪を記録し、自衛隊の救助を受けた[13]。この折には虎杖分校が豪雪で倒壊寸前となったため、三山の児童は集落内で分散授業を受けた[13]

1964年(昭和39年)、遠下とともにテレビ共同受信施設組合を結成する[14]

ガチャマン景気と呼ばれた丹後織物産業全盛の頃である1965年(昭和40年)、手機が導入され、集落内で機業に従事することが可能となった[15]

1969年(昭和44年)、途絶えていた盆踊りが復活する[16]

1971年(昭和46年)、三山共同作業所が完成する[17]

1974年(昭和49年)、残っていた12戸全戸で、丹後町三宅に造営された三宅団地へ集団移住(挙家離村)した[18][19]

世帯数と人口の変動

[編集]

1884年(明治17年)には39戸、1888年(明治21年)から1896年(明治29年)には38戸があり、明治期には安定した集落であったと思われる。1960年(昭和35年)に31戸139人の人口を記録するが、1963年(昭和38年)の三八豪雪を機に離村が急増し、その後だんだんと世帯数が減少していった[3][20]

人口の変遷
1930年(昭和5年) 147人
1955年(昭和30年) 139人
1965年(昭和40年) 92人
1970年(昭和45年) 57人
1974年(昭和49年) 46人
1975年(昭和50年) 0人
世帯数の変遷
1884年(明治17年) 39戸
1888年(明治21年) 38戸
1896年(明治29年) 38戸
1930年(昭和5年) 30戸
1955年(昭和30年) 31戸
1960年(昭和35年) 31戸
1965年(昭和40年) 17戸
1970年(昭和45年) 13戸
1974年(昭和49年) 12戸
1975年(昭和50年) 0戸

暮らし

[編集]

主な生業は稲作であったが、田の多くは三山川の上流東方直線距離2.5キロメートルの地区にあり[4]、海抜400メートルの高原まで朝5時半に自宅を出て帰宅は夜7時という生活だった[21]。積雪が多く、冬は男性は杜氏として10月から翌4月の半年間、京都伏見、奈良名古屋島根方面へ出稼ぎに出るものが多かったため、女性ばかりの生活であり、小学校に通学することも大変であった[3][4]

離村

[編集]
三八豪雪(丹後豪雪)の被害を伝える新聞記事

1963年(昭和38年)の豪雪(世帯数26戸[4])を経て、1軒、1軒と離村が始まり、1974年(昭和49年)に当時残った12戸が集団で京丹後市丹後町三宅に移住することなった。その背景は、三山(及び小脇、竹久僧地区)の田が多くある碇地区が、京都府営の碇高原総合牧場として開発・造成されたことによる。住民が碇で所有していた土地(農地)を無償譲渡するかわりに、移転の手配を当時の丹後町に依頼し、相談や交渉を重ねて、住宅を建設する補助金も支出された[3]。最終的に1974年(昭和49年)に、京都府の碇高原総合牧場建設に伴う町の集団離村対策を活用し、全戸が三宅に集団移住した[1]

移転先の丹後町三宅は、三山より東方直線距離6キロメートルの地で[4]、もともと近くに土地を持っている人がいて利便性が高い、借りて耕作できる田があったことなどで選ばれた[3]。三宅にて造成された宅地は総面積1万平方メートルで18戸、配置は抽選で決め、家屋の間取りもそれぞれに考えて建てた[4][22]

集団離村後の1975年(昭和50年)に記念碑(石碑)を建立。記念誌はないが、8ミリビデオで集落の様子を撮影した[23]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c 竹内理三『角川日本地名大辞典26 京都府下巻』角川書店、1982年、640頁。 
  2. ^ 『丹後町史』丹後町、1976年、249頁。 
  3. ^ a b c d e 小山元孝『消えない村』林直樹、2015年12月25日、47頁。 
  4. ^ a b c d e f 京丹後市史編さん委員会『京丹後市の民俗』京丹後市長 中山泰、2014年3月30日、242頁。 
  5. ^ a b 『丹後町史』丹後町、1976年、15頁。 
  6. ^ 『丹後町史』丹後町、1976年、250頁。 
  7. ^ 『丹後町史』丹後町、1976年、187頁。 
  8. ^ 『川と人とふるさとと うかわ』上宇川地区公民館、1989年、17頁。 
  9. ^ 『丹後町史』丹後町、1976年、253頁。 
  10. ^ 『川と人とふるさとと うかわ』上宇川地区公民館、1989年、18頁。 
  11. ^ 『川と人とふるさとと うかわ』上宇川地区公民館、1989年、76頁。 
  12. ^ 『丹後町史』丹後町、1976年、376頁。 
  13. ^ a b 『川と人とふるさとと うかわ』上宇川地区公民館、1989年、80頁。 
  14. ^ 『川と人とふるさとと うかわ』上宇川地区公民館、1989年、81頁。 
  15. ^ 『川と人とふるさとと うかわ』上宇川地区公民館、1989年、83頁。 
  16. ^ 『川と人とふるさとと うかわ』上宇川地区公民館、1989年、85頁。 
  17. ^ 『川と人とふるさとと うかわ』上宇川地区公民館、1989年、86頁。 
  18. ^ 『川と人とふるさとと うかわ』上宇川地区公民館、1989年、88頁。 
  19. ^ 『丹後町史』丹後町、1976年、290頁。 
  20. ^ 東世津子、織戸昭徳(絵)『小脇の子安地蔵さん』あまのはしだて出版、1997年7月、47頁。 
  21. ^ 池井保『亡び村の子らと生きて』あゆみ出版、1977年11月10日、65頁。 
  22. ^ 小山元孝『消えない村』林直樹、2015年12月25日、50頁。 
  23. ^ 小山元孝『消えない村』林直樹、2015年12月25日、48頁。 

参考文献

[編集]
  • 小山元孝『消えない村』林直樹、2015年
  • 京丹後市史編さん委員会『京丹後市の民俗』京丹後市長 中山泰、2014年
  • 東世津子、織戸昭徳(絵)『小脇の子安地蔵さん』あまのはしだて出版、1997年
  • 池井保『亡び村の子らと生きて』あゆみ出版、1977年
  • 『丹後町史』丹後町、1976年
  • 『川と人とふるさとと うかわ』上宇川地区公民館、1989年
  • 『日本歴史地名大系 26 京都府の地名』平凡社、1981年、ISBN 4582490263
  • 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 26京都府 上巻』角川書店、1982年
  • 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 26京都府 下巻』角川書店、1982年、ISBN 4040012623
  • 京都府『丹後地区広域市町村圏振興整備構想研究報告書』京都府、1976年
  • 坂口慶治「丹後地方における廃村の多発現象と立地環境との関係その1 : 地形的・地質的条件との関係」『京都教育大学環境教育研究年報』第6号、1998年3月、pp. 51-82、hdl:20.500.12176/4152
  • 高橋達夫「丹後半島における挙家離村と機業」『人文地理』第22巻4号、1970年、pp. 454-475、doi:10.4200/jjhg1948.22.454