三戸友澄
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時代 | 不詳 - 鎌倉時代初期 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 承久3年(1221年) |
改名 | 不詳 |
別名 | 三浦友澄 |
墓所 | 三浦市初声町三戸 |
官位 | 不詳 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 源頼朝、頼家、実朝 |
氏族 | 桓武平氏良文流、三浦氏 |
父母 | 三浦義澄、不詳 |
兄弟 | 義村、重澄、胤義、友澄他 |
妻 | 不詳 |
子 | 不詳 |
三戸 友澄(みと ともずみ)は、鎌倉時代前期の三浦一族の武将。三浦義澄の子。鎌倉幕府の御家人。
経歴
[編集]三戸友澄招魂碑 子爵三浦基次書 大正十年三月建之 初聲村史蹟名勝保存會
三戸友澄招魂陰歌 鐵城居士 喬在埃岡松下古墓故経路苔色誉己固己安偉人室偉人 為平曰十郎姓是三戸名友澄三浦之當万夫望内田庄司 及海戸三家皆聳股肱良君才見承久賊亂天歩 我皇湖南長勤矢家 首級葬故郷風雨七百艅年後山海放物 酒額下大荒精書
鎌倉時代の武将三浦義澄の子息、三戸友澄主従墓所傍らの「招魂碑」の文面から承久の乱(1221年)に朝廷側で出陣し、戦死した[1]。
画像集
[編集]-
三戸友澄招魂碑(三浦市初声町三戸、史跡全体像)
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三戸友澄主従墓(京浜急行三崎口駅からバス停三戸海岸、墓石は倒れたまま)
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三戸友澄招魂碑裏面碑文(つつじ公園とも呼ばれる)
脚注
[編集]- ^ 三浦半島きままに散歩三崎口
参考文献
[編集]- 三浦半島きままに散歩三崎口 三浦観光情報発信協議会 (平成30年3月発行パンフレット形式)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- タウンニュース 三浦の散歩道碑文の大意あり。
- 横三労連新聞 第 126 号三戸友澄の存在につ いては、「吾妻鏡」にも「承久記」にも記されておらず、謎が多いとのこと。