三朝遼事実録
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『三朝遼事實錄』(サンチョウ リョウジ ジツロク)[1]は、明代の実録。
編纂者は明の王在晋で、崇禎12年1639[注 1][2]上梓、全17巻 (首巻を含めれば全18巻)。万暦46年1618旧暦4月から天啓7年1627旧暦12月[注 2]までの9年8箇月間 (万暦・泰昌・天啓三朝) に亘る期間の、遼東における兵事や朝廷における政争などを記す。
清代には禁書とされたが、1931年[注 3]に江蘇省立国学図書館 (現国立南京図書館)[注 4]が同館の私蔵版を基に再刊した。[4]
巻 | 始 | 末 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|
明暦 | 西暦 | 月 | 明暦 | 西暦 | 月 | |
1 | 万暦46 | 1618 | 4 | 万暦47 | 1619 | 10 |
2 | 万暦47 | 1619 | 11 | 万暦48 | 1620 | 5 |
3 | 泰昌1[注 5] | 1620 | 6 | 天啓1 | 1621 | 2 |
4 | 天啓1 | 1621 | 3 | 天啓1 | 1621 | 5 |
5 | 天啓1 | 1621 | 6 | 天啓1 | 1621 | 8 |
6 | 天啓1 | 1621 | 9 | 天啓1 | 1621 | 12 |
7 | 天啓2 | 1622 | 1 | 天啓2 | 1622 | 2 |
8 | 天啓2 | 1622 | 3 | 天啓2 | 1622 | 4 |
9 | 天啓2 | 1622 | 5 | 天啓2 | 1622 | 6 |
10 | 天啓2 | 1622 | 7 | 天啓2 | 1622 | 8 |
11 | 天啓2 | 1622 | 9 | 天啓2 | 1622 | 12 |
12 | 天啓3 | 1623 | 1 | 天啓3 | 1623 | 5 |
13 | 天啓3 | 1623 | 6 | 天啓4 | 1624 | 12 |
14 | 天啓5 | 1625 | 1 | 天啓5 | 1625 | 8 |
15 | 天啓5 | 1625 | 9 | 天啓6 | 1626 | 1 |
16 | 天啓6 | 1626 | 2 | 天啓6 | 1626 | 12 |
17 | 天啓7 | 1627 | 1 | 天啓7 | 1627 | 12 |
脚註
[編集]典拠
[編集]註釈
[編集]- ^ 参考:维基百科「三朝辽事实录」では「崇祯十一年 (1638年) 成书」としているが、典拠不詳。
- ^ 参考:目次上は12月としているが、巻17の最後の記述は11月。
- ^ 参考:维基百科「三朝辽事实录」は1930年としている。
- ^ 参考:清代の両江総督・端方により1907年に創設された「江南図書館」が濫觴で、辛亥革命後の1927年、民国政府が大学区制を実施したことにより「第四中山大学国学図書館」に改名、続けて翌1928年には「国立中央大学国学図書館」に改名されたが、翌1929年に大学区制が廃止されると「江蘇省立国学図書館」に改名されて江蘇省教育庁の直属機関となり、新中国成立直後の華東軍政委員会文化部の指導時代を経て、1952年に「国立南京図書館」と改名されて現在に至る。[3]
- ^ 参考:神宗が崩御した1620年は、本来なら万暦の48年だが、光宗は即位したその年の9月に崩御したため、翌1621年に熹宗の元号「天啓」に改めると、光宗の元号「泰昌」が消滅してしまうことから、光宗の即位からその年の末までは「泰昌」、それ以前は「万暦」、翌年からは「天啓」と定められた。