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三木良英

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三木 良英(みき よしひで、1887年明治20年)3月31日[1][2] - 1970年昭和45年)2月18日[1][2][注 1])は、日本の陸軍軍人内科医[3]。最終階級は陸軍軍医中将

略歴

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兵庫県出身[1][2][4]。三木駿三の長男として生まれる[1]。姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)、第三高等学校を経て、1912年(明治45年)6月に東京帝国大学医科大学を卒業し、二等軍医に任官し歩兵第20連隊付となる[1]。1913年(大正2年)8月、東京第二陸軍病院(現国立成育医療研究センター)付となる[1]。1914年(大正3年)8月、東京帝大大学院に入学[1]。1915年(大正4年)8月、一等軍医に昇進し、歩兵第71連隊付、青島病院付、スイス駐在を務め、1921年(大正10年)3月、三等軍医正に進級しドイツ駐在となる[1]。1922年(大正11年)6月、東京第二陸軍病院付に発令され帰国[1]陸軍軍医学校教官に転じ、1924年(大正13年)9月、医学博士の学位を受けた[1]

1925年(大正14年)4月、二等軍医正に昇進[1]。1927年(昭和2年)12月、軍医学校部員に就任し、1928年(昭和3年)8月、一等軍医正に、1933年(昭和8年)8月、軍医監にそれぞれ進み、1935年(昭和10年)8月、近衛師団軍医部長に就任した[1][2][4]。1936年(昭和11年)8月、軍医学校幹事に就任し、1937年(昭和12年)3月、軍医中将に進み朝鮮軍軍医部長に発令された[1][2][4]。同年8月、北支那方面軍軍医部長に発令され日中戦争に出征[1]。1938年(昭和13年)2月、臨時東京第一病院長に発令されて帰国[1]。同年12月、陸軍省医務局長兼大本営野戦衛生長官に就任した[1][2][4]。1943年(昭和18年)3月に待命となり、同月予備役に編入と同時に召集され軍医学校長に就任した[1][2][4]。1944年(昭和19年)12月に召集解除となった[1][2][4]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

戦後、陸軍軍医団緑会会長を務めた[6]

栄典

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外国勲章佩用允許

親族

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  • 子息 三木輝男(陸軍軍医少佐)[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本人名大辞典』1811頁では2月28日。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『日本陸海軍総合事典』第2版、151頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』693頁。
  3. ^ 『日本人名大辞典』1811頁。
  4. ^ a b c d e f 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』538頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」84頁。
  6. ^ 『現代人名情報事典』981頁。
  7. ^ 『官報』第4632号 付録「辞令二」1942年6月20日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
  • 『現代人名情報事典』平凡社、1987年。