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二条院三河内侍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三河内侍から転送)

二条院三河内侍(にじょういんのみかわのないし 、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女流歌人。伊賀入道寂念こと加賀守藤原為業の娘(為業の子範玄の娘とも)。三条実綱との間に七条院大納言従五位下侍従三条公仲を産んでいる。女御家兵衛佐とも呼ばれた。歌人としては、単に三河内侍で二条院三河内侍を指す[* 1]

経歴

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二条天皇の典侍として出仕、後に後白河院女御藤原琮子の女房となる[* 2]。実綱以外に左京大夫藤原定隆との間にも子をもうけている。『千載和歌集』以降の勅撰集歌合等に作品を残している。俊恵を中心とする「歌林苑」にも参加していた[1]

逸話

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  • 夭逝した二条院を惜しむ人々との歌の贈答が残されている。

  二条院かくれさせたまひての比三河の内侍がもとより
よとともにむかしをこふるなみだのみ つきせぬみとはしらずや有りけむ
  かへし
みせばやなむかしこふらむなみだにも ものおもふ袖のまさるたもとを

— 『師光集』[2]

  五十日のはてつかたに
  二条院の御はかに御仏供養しける人にぐしてまゐりたりけるに
  月あかくてあはれなりければ
こよひ君しでの山ぢの月をみて くものうへをやおもひいづらん
  御あとにみかわの内侍候ひけるに九月十三夜人にかはりて
かくれにし君がみかげの恋しさに 月にむかひてねをやなくらん
  返し                               内侍
わがきみのひかりかくれし夕より やみにぞまよふ月はすめども

— 『山家集』[3]

作品

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勅撰集
歌集名 作者名表記 歌数 歌集名 作者名表記 歌数 歌集名 作者名表記 歌数
千載和歌集 二条院内侍参河
一条院内侍参川
 2
 1
新古今和歌集 参河内侍  1 新勅撰和歌集
続後撰和歌集 続古今和歌集 続拾遺和歌集
新後撰和歌集 玉葉和歌集 参河内侍
二条院参河内侍
 1
 1
続千載和歌集
続後拾遺和歌集 風雅和歌集 二条院参河内侍
参川内侍
 2
 1
新千載和歌集
新拾遺和歌集 二条院参河内侍  1 新後拾遺和歌集 新続古今和歌集 二条院参河内侍
参河内侍
 1
 1
定数歌歌合
名称 時期 作者名表記 備考
住吉社歌合 1170年(嘉応2年) 女御家兵衛佐元二条院参河内侍 藤原修範と番い勝1負1持1
民部卿家歌合 1196年(建久6年)正月20日 二条院三河内侍 勝1負3持1
石清水若宮歌合 1200年(正治2年) 二条院参河内侍 藤原隆房と番い勝1負1持3
私撰集
名称 時期 作者名表記 備考
続詞花和歌集 1165年(永万元年) 三河内侍
参河
参河内侍
1
3[* 3]
1
言葉和歌集 1177年(治承元年)頃か 参河内侍  4
私家集
  • 家集は伝存しない。

脚注

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注釈

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  1. ^ 三河内侍 二條院内侍三河に同じ(『新修作者部類』)
  2. ^ この時の女房名は「兵衛佐」だが、一般的には「三河内侍」の方が後々まで用いられている。
  3. ^ 『新修作者部類』では、これら5首を「二條院内侍三河」の作とするが、うち3首の作者名「参河」については、『金葉和歌集』の披露に列席して従一位藤原宗子(皇嘉門院藤原聖子の母)と歌の贈答をしており、三河内侍とは別人と考えられる。

出典

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  1. ^ 『日本古典文学大辞典』(岩波書店)「歌林苑」
  2. ^ 源師光(生蓮)『師光集』 107-108
  3. ^ 西行山家集』 792-794

参考文献

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関連項目

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