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三津屋古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三津屋古墳

墳丘・石室開口部
所在地 群馬県北群馬郡吉岡町大字大久保2037-1(字三津屋)
位置 北緯36度26分6.15秒 東経139度1分32.52秒 / 北緯36.4350417度 東経139.0257000度 / 36.4350417; 139.0257000座標: 北緯36度26分6.15秒 東経139度1分32.52秒 / 北緯36.4350417度 東経139.0257000度 / 36.4350417; 139.0257000
形状 八角墳
規模 対角長23.8m
高さ4.5m
埋葬施設 両袖式横穴式石室
築造時期 7世紀後半
史跡 群馬県指定史跡「三津屋古墳」
地図
三津屋古墳の位置(群馬県内)
三津屋古墳
三津屋古墳
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三津屋古墳(みつやこふん)は、群馬県北群馬郡吉岡町大久保にある古墳。形状は八角墳。群馬県指定史跡に指定されている。

概要

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墳丘
石室

群馬県中部、榛名山東麓において、利根川に注ぐ午王頭川の左岸に築造された古墳である。これまでに石室は大きく破壊を受けているほか、1993年平成5年)に発掘調査が実施されている。

墳形は正八角形[1]。墳丘は2段築成で、厚さ10センチメートル程度の版築状の水平積み上げによって構築される[1]。墳丘外表には葺石が認められるほか、墳丘周囲には周濠が巡らされる[2]。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、玄室奥壁を八角形の中心として南方向に開口する。石室は大きく破壊を受けているが、自然石乱石積みによって構築されて一部には切石を使用したと見られ[2]、前面には前庭部を付す[1]。盗掘のため副葬品は詳らかでない[2]

この三津屋古墳は、古墳時代終末期7世紀後半頃の築造と推定される[2]。八角墳は段ノ塚古墳奈良県桜井市舒明天皇陵)・御廟野古墳京都府京都市天智天皇陵)・野口王墓古墳(奈良県明日香村天武持統天皇合葬陵)など当時の天皇陵クラスの古墳で採用される墳丘形態であり、当地の豪族の特異性を示す点で貴重な古墳になる。また本古墳の北西にある南下古墳群は上毛野地域において総社古墳群(前橋市)に次ぐ有力首長墓群であり、本古墳と合わせて畿内ヤマト王権による上毛野地域の中央集権化との関係を考察するうえで重要視される[3]

古墳域は1995年(平成7年)に群馬県指定史跡に指定されている[4]

遺跡歴

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  • 1993年平成5年)、発掘調査(吉岡町教育委員会、1996年に報告書刊行)。
  • 1995年(平成7年)3月24日、群馬県指定史跡に指定[4]
  • 2001年(平成13年)3月23日、史跡範囲の追加指定[2]

墳丘

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古墳の規模は、対角長約23.8メートル・残存高さ4.5メートルを測り、八角形の一辺は下段約9メートル・上段約6メートルを測る[2]。築造に際しては1尺約30センチメートルの唐尺の使用が推測される[2]

墳丘の葺石には、下段では山石が、上段では扁平な川原石が使用されており、特に上段は精巧な造りになる[2]

文化財

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群馬県指定文化財

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  • 史跡
    • 三津屋古墳 - 1995年(平成7年)3月24日指定、2001年(平成13年)3月23日追加指定[4][2]

脚注

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  1. ^ a b c 三津屋古墳(平凡社、刊行後版) 2006.
  2. ^ a b c d e f g h i 史跡説明板。
  3. ^ 右島和夫「記念講演 古墳から見た七世紀の上毛野地域 -吉岡町南下古墳群を中心として-」『群馬文化』第338号、群馬県地域文化研究協議会、2019年。
  4. ^ a b c 三津屋古墳(吉岡町教育委員会)。

参考文献

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(記事執筆に使用した文献)

  • 史跡説明板(吉岡町教育委員会、2021年設置)
  • 三津屋古墳パンフレット(吉岡町教育委員会、2021年) - リンクは吉岡町教育委員会。
  • 大塚初重、柳下恵理子「三津屋古墳」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館 
  • 荒木勇次「三津屋古墳」『続 日本古墳大辞典東京堂出版、2002年。ISBN 4490105991 
  • 「三津屋古墳」『日本歴史地名大系 10 群馬県の地名 刊行後版(ジャパンナレッジ収録)』平凡社、2006年。ISBN 4582490107 

関連文献

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(記事執筆に使用していない関連文献)

  • 『三津屋古墳 -八角形墳の調査-(吉岡町文化財調査報告書 第7集)』吉岡町教育委員会、1996年。 

関連項目

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外部リンク

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