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轟二郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三浦康一から転送)
とどろき じろう
轟 二郎
本名 三浦 康一
生年月日 (1954-08-19) 1954年8月19日
没年月日 (2020-08-02) 2020年8月2日(65歳没)
出生地 静岡県三島市
死没地 神奈川県
国籍 日本の旗 日本
職業 俳優、コメディアン、タレント殺陣師
活動期間 1970年代 - 2015年
主な作品
びっくり日本新記録
ザ・スターボウリング
おじゃまします街かどクイズ
翔んだカップル』他
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轟 二郎(とどろき じろう、本名:三浦 康一(みうら こういち)[1]1954年8月19日[1] - 2020年8月2日[2])は、日本コメディアンタレント殺陣師

来歴・人物

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静岡県三島市出身。小学生から中学生時代、体操部卓球部で活動[1]。高校生時代にはビリヤードの大会で優勝したことがある[1]日大三島高等学校卒業。高校卒業後1973年若駒プロに入り[1]、殺陣師(居合道三段)兼スタントマンから芸能活動を開始。

金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ)に出演したことでお茶の間の人気者となる。芸名は、この『うわさのチャンネル!!』の会議中に同番組のスタッフの一人がふと「」とつぶやいたことから決まっていったという[3]。一方、『びっくり日本新記録』(読売テレビ)には本名でレギュラー出演し、“チャレンジボーイ”として毎週出演して活躍していたこともあり、自身の知名度も上がった。

バラエティー番組にも出演する傍ら俳優としても活躍し、『翔んだカップル』(フジテレビ)でレギュラー出演し、劇中で用いた「ボキ(僕)はね」という新語を使い流行させた。

1980年水島びんとコンビを組み「コント百連発」を結成。お笑いスター誕生で銀賞を獲得する活躍ぶりだったが、このコンビも長くは続かず、翌年解散した。

その後は結婚式の司会から地方の番組のMCまで幅広く活躍していたが、脳梗塞を患い、静岡県に帰郷。治療と療養に専念した時期もある。

2014年より エフエムぬまづの朝の生放送「モーニングスプラッシュ」の木・金曜日を担当。2016年1月より静岡新聞にてコラムを執筆(同年3月まで)した。晩年までラジオ番組などでも活躍し、自身のオフィシャルブログに日頃の活動を掲載していたほか、総合情報ポータルサイト Niiiche にて、毎週水曜日の連載コラム執筆を担当していた。

2020年8月2日7時15分、大腸がんのため、神奈川県内の病院で死去[4][2][5]。65歳没。死去する1年半前から闘病生活を続けており[2]、同年2月に東京・新井薬師で行われた節分会への参加が最後の公の場になった。最期は妻と2人の子供にみとられ、息を引き取ったという[5]

主な出演

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映画

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テレビドラマ

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バラエティ

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ほか出演あり

教養番組

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ラジオ

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  • 達人訪問元気で長生き.com
  • 轟二郎のご一緒しましょう!そうしましょう!(FMカオン)
  • モーニングスプラッシュ(エフエムぬまづ)木・金担当

オリジナルビデオ

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CM

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脚注

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  1. ^ a b c d e 河北新報 1984年8月17日朝刊 22面「登場」コーナー
  2. ^ a b c 永遠のチャレンジボーイ” (2020年8月6日). 2021年1月7日閲覧。
  3. ^ 週刊テレビ番組(東京ポスト)1984年7月13日号「芸名由来記」54頁
  4. ^ "「チャレンジボーイ」轟二郎さん死去 大腸がん". nikkansports.com. 日刊スポーツ新聞社. 6 August 2020. 2020年11月27日閲覧
  5. ^ a b 轟二郎さん死去 65歳大腸がん 「びっくり日本新記録」体張った“チャレンジボーイ” - Sponichi Annex 2020年8月7日

関連項目

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外部リンク

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