三澤功博
三澤功博 みさわ こうはく | |
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生年月日 | 1910年2月16日 |
出生地 |
日本 長野県上伊那郡西箕輪村 (現・長野県伊那市) |
没年月日 | 1998年6月22日(88歳没) |
死没地 | 日本 長野県伊那市 |
出身校 |
上伊那農業学校卒業 (現・長野県上伊那農業高等学校) |
所属政党 | 無所属 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1970年4月30日 - 1986年1月14日 |
当選回数 | 1回 |
西春近村長 | |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1960年2月 - 1965年3月 |
西春近村議会議長 | |
西春近村会議員 | |
当選回数 | 2回 |
三澤 功博(みさわ こうはく、1910年〈明治43年〉2月16日[1][2] - 1998年〈平成10年〉6月22日[2])は、昭和から平成初期の政治家。長野県上伊那郡西春近村長、伊那市長。
来歴
[編集]長野県上伊那郡西箕輪村(現・伊那市[3])で、三澤舜平、はく の長男として生まれた[1]。1927年(昭和2年)上伊那農業学校(現・長野県上伊那農業高等学校)卒業[1][3][4][5]。西春近村議会議員となり2期在任し[1][4][3]、1954年(昭和29年)同議長となる[1][3]。1960年(昭和35年)2月に西春近村長に就任し、1965年(昭和40年)3月まで2期在任した[1][3][5][6]。西春近村の伊那市編入後に、伊那市議会議員を1期務めた[1][3][4]。
1970年伊那市長選挙
[編集]1970年(昭和45年)4月、伊那市長選挙に自民党公認で現職の田畑五郎司を破って当選した[1][3][4][7][8]。
※当日有権者数:-人 最終投票率:87.97%(前回比: 2.97pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
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三澤功博 | 60 | 無所属 | 新 | 13,358票 | 43.0% | - |
林友七 | 62 | 無所属 | 新 | 10,087票 | 32.5% | - |
田畑五郎司 | 68 | 自由民主党 | 現 | 7,628票 | 24.5% | - |
1974年(昭和49年)は無投票で再選を果たした[8]。1978年(昭和53年)も無投票で3選を果たした[8]。
1982年伊那市長選挙
[編集]1982年(昭和57年)は新人2人との選挙戦となったが、これを破って4選を果たした[8]。
※当日有権者数:-人 最終投票率:55.15%(前回比:-pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
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三澤功博 | 72 | 無所属 | 現 | 19,920票 | 90.5% | - |
西村隆夫 | 52 | 無所属 | 新 | 1,646票 | 7.5% | - |
伊藤柳造 | 76 | 無所属 | 新 | 447票 | 2.0% | - |
1986年(昭和61年)1月まで務めた[3][5]。在任中は伊那中央保健衛生組合によるゴミ焼却場、し尿処理場、公共下水道などの生活環境整備、市営住宅の建設などにあたった[4]。その他、伊那市開発公社理事長や、上伊那山林協会長、上伊那地域行政広域事務組合(現上伊那広域連合)長など歴任した[1][3][4]。
1998年6月22日、脳出血のため伊那市の自宅で死去した[5]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 『長野県人名鑑』513頁。
- ^ a b 『全国歴代知事・市長総覧』206頁。
- ^ a b c d e f g h i 『長野県風土記』606頁。
- ^ a b c d e f 『日本の歴代市長 第2巻』283頁
- ^ a b c d “[死亡]三沢功博氏”. 信濃毎日新聞 (長野): p. 7. (1998年6月22日)
- ^ 『伊那市史 現代編 39コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『明治-平成長野県の選挙 146コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c d 『明治-平成長野県の選挙 147コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション