コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

三田葆光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三田 葆光(さんだ かねみつ、文政8年(1825年6月21日 - 明治40年(1907年10月17日)は、幕末明治幕臣国学者で、歌人茶人としても知られた[1][2]。別名に礼本、喜六、伊右衛門、伊兵衛。は櫨園。

略歴

[編集]

御家人の三田平之丞の子として生まれる。安政3年(1856年)年、箱館奉行支配調役並として箱館に赴任[3]。函館行きには家族のほか、松浦武四郎が同行した。奉行所では河津祐邦と同僚だった。

文久元年(1861年)向山黄村に随行して欧米を巡る。帰国後、黄村とともに蝦夷に渡り、箱館奉行支配組頭として蝦夷開拓に従事。慶応3(1867年)年に外国奉行支配組頭としてフランスのパリ万国博覧会 (1867年)に派遣される[4][5]

維新後は駿府に下る徳川家に従い、黄村らとともに静岡に移る。1968年に黄村を長に静岡学問所が設立されると、和学教授を務めた[6]。その後、神祇省教部小吏(1872年)[7][8]正院の権少史(1875年)[9]東京女子師範学校教諭、陸軍大学校兵学教官(1889年)などに就いたが辞職[1][10]。1886年には共立女子職業学校の発起人に名を連ねている[11]

その後は小林歌城黒川真頼に師事していた茶の湯和歌をもって余生を送った[1]。1898年(明治31年)に松浦詮が在京の知名士らと設立した輪番茶事グループ「和敬会」に加わり、会員の石黒忠悳伊藤雋吉伊東祐麿戸塚文海東胤城東久世通禧久松勝成三井高弘安田善次郎らと合わせて「十六羅漢」とあだ名されるほど茶人として知られた。

著書に『和学入門』、自詠の歌文集『櫨紅葉』7巻、『白石先生年譜』、『玉乃緒變格辨』などがある。

家族

[編集]
  • 父・三田平之丞(定雄) - 小普請方手代組頭[12]
  • 母・三田花朝(1797-1888) - 幕末・明治時代の歌人。備後国福山藩士・町田三右衛門の娘。名はみを(三保子)。香川景樹に入門し和歌を学び、を嗜み、結婚後も夫婦で歌道を嗜んだ[13]。1856年の葆光の函館赴任に同行した際の道中記『箱館日記』(安政3年2月6日江戸出立より3月5日箱館着まで)『箱館かへさ日記』(同年4月11日箱館出帆から同30日の江戸帰着まで)を遺した。
  • 妹・名前不明(1830-1914) - 入り婿に外国奉行、神奈川奉行の支配役を経て大蔵省役人となった三田弥吉[6]。「弥吉夫人」として中島歌子の萩の舎へ入門したことが樋口一葉日記に記されている。
  • 長男・三田佶(ただし、1851年生) - 日本銀行監事。青年期に御書院組(奥詰銃隊)から沼津兵学校に入学し、資業生(正規生)に選抜されるも病弱のため中退[14][15]。1873年に来日したヨハネス・ユストゥス・ラインの日本調査では通訳として同行した[16]。1876年のフィラデルフィア万国博覧会で事務を担当し、翌年帰国、内国勧業博覧会事務局勤務などを経て[5]、1878年に渡仏、英国在留中に外務書記を命じられてロンドン公使館に勤務、1881年に帰国し大蔵省に出仕、翌年日本銀行創立委員となり、秘書役を経て1897年に監事就任[14]。岳父に元大蔵省権少書記官・高藤三郎(たか・ふじさぶろう)[17][9]
  • 次男・直悦(1862年生)
  • 娘・元子 - 麹町の整骨医・名倉納の妻。納は1871年に静岡藩費で米国に留学し、当地の大学医学部を卒業して内務省免状を得た医師[18][19]。納の父は整骨医として知られた名倉弥五郎で、静岡病院医師[19]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c 『国学者伝記集成 続篇』1935、p368
  2. ^ 三田葆光『櫨紅葉』攷- 刊本と稿本武井和人、研究と資料 65, 27-36, 2011-07 埼玉大学 研究と資料の会
  3. ^ 箱館日記 ; 箱館かへさ日記 三田花朝尼
  4. ^ 手術 幕末の日本とフランス、藤井良治
  5. ^ a b 博覧会・博物館と沼津兵学校の人脈沼津市明治資料館通信、140号、令和2年1月25日
  6. ^ a b 樋口一葉と沼津兵学校に連なる人びと明治資料館通信、VoL23 NO.4 通巻第92号
  7. ^ 『静嘉堂文庫藏書印譜』丸山季夫、青裳堂書店, 1982
  8. ^ 明治 4 年から 5 年にかけての東儀文均の生活南谷美保、四天王寺大学紀要 第 47 号(2009 年 3 月)
  9. ^ a b 明治零年代後半における洋行官僚に関する一考察柏原宏紀 關西大學經済論集67巻4号、2018-03-10
  10. ^ 官報. 1889年03月21日
  11. ^ 宮川保全と共立女子職業学校明治史料館通信、V01.24 NO.2 通巻第94号 2008.7.25
  12. ^ 『蝦夷婆奈誌: 東西蝦夷場所境取調書 ; 下田日誌』松浦武四郎、北海道出版企画センター, 1996、p229
  13. ^ 『日本女性大辞典』吉川弘文館, 2008, p304
  14. ^ a b 三田佶『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  15. ^ 「旧幕府陸軍の解体と静岡藩沼津兵学校の成立」樋口雄彦、国立歴史民俗博物館研究報告第121集、2005年3月
  16. ^ ライン博士と日本の紙に就いて『三椏及三椏紙考』王子製紙販売部総務課、1940年
  17. ^ 姻戚関係にみる沼津兵学校の人物その二 明治資料館通信、Vol.14 NQ3 通巻第55号、1998.10。 25
  18. ^ 明治16 年(1883)に東京府が行った整骨師,入歯師等の調査について樋口輝雄 日本医史学雑誌 第55 巻第2 号(2009)
  19. ^ a b 洋画家川村清雄と沼津兵学校の人脈明治資料館通信、Vol.15 No.4 通巻第60号 2000. 1 .25

外部リンク

[編集]