三輪伝七
三輪 伝七(傳七、みわ でんしち、1860年3月26日(万延元年3月5日[1][2])- 1913年(大正2年[注釈 1])11月12日[3])は、明治から大正初期の地主、酒造家、実業家、政治家。衆議院議員、山口県会議長、山口県熊毛郡周防村長。号・翠楠[3][4]。
経歴
[編集]周防国熊毛郡小周防村[3](山口県[5]熊毛郡周防村[4][6]を経て現光市大字小周防)で、農業[3]、酒造業[3]・三輪辰之助、トシ(登志子)の長男として生まれた[2][4]。父の死去により1869年(明治2年1月)家督を相続し、母の養育を受けて酒造業を営む[2][4][5][6]。同年、山口明倫館文学寮に入り漢学を修めた[3][4]。1871年(明治4年)上京して同人社に入り[3][4][5]、1873年(明治6年)11月、慶應義塾に移り英学を修めた[2][3][4][5][6]。病のため1877年(明治10年[注釈 2])8月に帰郷した[4]。
1880年(明治13年)小周防村会議員に就任[3][4][5]。同議長、大河内村外二ヶ村連合村会議長、米川組連合村会議長、熊毛郡第18小学区学務委員、熊毛郡地主総代、小周防村地主総代、山口県協同会議員、周防村会議員などを務めた[4][5]。1886年(明治19年)3月、山口県会議員に選出され、1894年(明治27年)3月まで在任し、同議長も務めた[4][5]。
1894年3月、第3回衆議院議員総選挙(山口県第4区)で初当選[7]。以後、第9回総選挙まで3回再選され、衆議院議員に通算4期在任した[5][6]。
1895年(明治28年)1月、周防村長に就任し[3]1896年(明治29年)10月まで在任[4]。同年9月、郡制施行により熊毛郡会議員に当選し1899年(明治32年)まで務めた[4]。その他、熊毛郡第四部衛生会長、同郡教育会議員、同郡島田川改修委員、防長倶楽部地方委員、熊毛郡徴兵参事員、同郡所得税調査委員などに在任[4][5]。
実業界などでは、熊毛郡農工商会長、同郡模範農場取締、同郡農会副会長、地方森林会議員、防長漁業社長、朝鮮勧農株式会社監査役などを務めた[2][4][5]。
国政選挙歴
[編集]- 第1回衆議院議員総選挙(山口県第4区、1890年7月、無所属)落選[7]
- 第3回衆議院議員総選挙(山口県第4区、1894年3月、無所属)当選[7]
- 第5回衆議院議員総選挙(山口県第4区、1898年3月、国民協会)当選[8]
- 第6回衆議院議員総選挙(山口県第4区、1898年8月、国民協会)当選[8]
- 第9回衆議院議員総選挙(山口県郡部、1904年3月、立憲政友会)当選[9]
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 衆議院『衆議院議員名簿』〈第二十回帝国議会衆議院公報第1号附録〉、1904年、23頁。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第4版』み6頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『増補 近世防長人名辞典 第2刷』226-227頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『衆議院議員列伝』519-520頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』620頁。
- ^ a b c d 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』434頁。
- ^ a b c 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』50頁。
- ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』106頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』30頁。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 山崎謙編『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所、1901年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 吉田祥朔『増補 近世防長人名辞典 第2刷』マツノ書店、2002年。