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上林政重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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上林 政重
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文9年(1550年[1]
死没 慶長5年8月1日1600年9月8日[1]
別名 又市、越前、竹庵[2]
戒名 良清[2]
墓所 平等院養林庵[2]
主君 徳川家康
氏族 清和源氏赤井氏族上林氏[2]
父母 上林久重六角義賢の娘[2]
兄弟 久茂紹喜秀慶政重[2]
杉田忠政の娘[2]
林吉忠政信林忠定[2]
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上林 政重(かんばやし まさしげ)は、安土桃山時代の武将、茶師[1]

略歴

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上林氏は丹波国の土豪・赤井氏の一族で、祖父の代に何鹿郡上林庄に住んで苗字としたというが、また山城国宇治とも関連が深かった[3][2]。父・久重は北近江浅井氏に、兄・久茂織田信長に仕えたが、自身は元亀2年(1571年)より徳川家康に仕えた。三河額田郡土呂に100石を与えられ、松平親宅と共に三河一向一揆依頼衰退していた土呂市と土呂茶栽培の支配を任されている[2]天正12年(1584年小牧・長久手の戦いでは首級2を獲る武功を立て、岡崎奉行となった。天正18年(1590年)兄の領する宇治に移り住んで茶畑を賜り、以後は兄と共に製茶業に携わった[4][2]茶道千利休に学んだという[1]慶長3年(1598年豊臣秀吉が死去すると、榊原康政とともに伏見城の家康に復命した。慶長5年(1600年伏見城の戦いでは騎兵13と足軽132人を率いて籠城に加わる。茶筅馬印に、茜染めの布を鉢巻として戦ったが、太鼓郭の戦闘で鈴木善八郎に討たれた。嫡子・政信高野山に隠れた後、戦後に家康から家督継承を認められた[4]

脚注

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出典

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  1. ^ a b c d 上田 et al. 2001.
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『寛政重修諸家譜』 1966, § 巻第千二百五十六 清和源氏頼季流 上林.
  3. ^ 柴田 & 高取 1981, § 上林庄.
  4. ^ a b 飯田 1929, § 巻一百九十二 武臣列伝第一百.

参考文献

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  • 上田正昭; 西澤潤一; 平山郁夫 ほか 編「上林政重」『日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 9784062108003 
  • 柴田實; 高取正男 編『京都府の地名』平凡社日本歴史地名大系〉、1981年。ISBN 9784582910407 
  • 飯田忠彦野史』 3巻、日本随筆大成刊行会、1929年。 
  • 寛政重修諸家譜』 19巻、続群書類従完成会、1966年。ISBN 4797102233