コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

上田昌雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

上田 昌雄(うえだ まさお、1897年明治30年)12月6日[1][2] - 1993年平成5年)8月31日[1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴

[編集]

徳島県出身[1][2][3]。裁判官書記・上田慶蔵の息子として生まれる[1]大阪陸軍地方幼年学校陸軍中央幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第62連隊付となる[1][4]。1920年(大正9年)7月から1921年(大正10年)11月までシベリア出兵に出征した[1]。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業し歩兵第44連隊中隊長に就任した[1][2][3]

1928年(昭和3年)12月、参謀本部付勤務となる[1]。以後、参謀本部員、満州里特務機関長、参謀本部員、参謀本部付(イラン駐在)、関東軍参謀ポーランド公使館付武官などを経て、1940年(昭和15年)3月、歩兵大佐に昇進し陸軍省兵務局付(後方勤務要員養成所所長を経て陸軍中野学校幹事)となる[1][2][3][5]。1941年(昭和16年)10月、兵務局防衛課長に転じ、1944年(昭和19年)3月、陸軍少将に昇進[1][2][3]。兵務局付(調査部長)を経て、1945年(昭和20年)7月、大本営陸軍報道部長に就任し終戦を迎えた[1][2][3]。同年11月、予備役に編入された[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本陸海軍総合事典』第2版、25頁。
  2. ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』114-115頁。
  3. ^ a b c d e 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』431頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』428、431頁。
  5. ^ 陸軍中野学校初期卒業生の「忍者」活動 山本武利、諜報研究会、2018・12・1
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」185頁。

参考文献

[編集]
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。