上遠野秀忠
かどの ひでただ 上遠野 秀忠 | |
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生誕 |
1854年5月8日 (安政元年4月12日) 久保田藩 |
死没 | 1933年8月4日(昭和8年) |
記念碑 | 「上遠野秀忠先生之碑」(秋田県立スポーツ科学センター) |
国籍 | 日本 |
職業 |
裁判所書記 武道教師 剣道家(剣術家)、槍術家 |
流派 |
新天流 日置流大蔵派弓術、大坪流馬術、林崎流居合術、休流砲術、大谷流柔術 |
肩書き |
大日本武徳会剣道範士 大日本武徳会槍術範士 |
子供 | 上遠野秀治(長男) |
親 | 上遠野群吾 |
親戚 | 上遠野富之助(弟) |
上遠野 秀忠(かどの ひでただ、1854年5月8日(安政元年4月12日[1])- 1933年(昭和8年)8月4日[1])は、日本の武術家。新天流12世師範。大日本武徳会剣道範士、槍術範士。
経歴
[編集]生い立ち
[編集]久保田藩士、新天流11世師範上遠野群吾の長男として生まれる。上遠野家は代々新天流師範を務めた。群吾は横手城城代の配下に属し、新天流剣術及び槍術を自宅の道場で教授するかたわら、漢学の私塾時習堂を1851年(嘉永4年)から開いていた。
秀忠は幼少のころから自宅の道場で見取り稽古を始め、時習堂で四書の素読に励んだ。このほかに日置流大蔵派弓術を小貫蔵人に、大坪流馬術を山県三郎に、林崎流居合術を秦衛門に、休流砲術を川上与右衛門に、大谷流柔術を石川市十郎に学んだ。その後郷校育英書院の筆頭になり、藩校明徳館に進んでその塾頭に上ったという。
明治維新後
[編集]1868年(明治元年)、元服。同年戊辰戦争秋田戦争により秋田藩は攻撃を受け、横手城は炎上した。
1873年(明治6年)、群吾から新天流極意皆伝を授けられ、新天流12世師範となる。
1883年(明治16年)、上京して直心影流剣術榊原鍵吉道場を中心に東京で稽古を積み、翌年帰郷する。
1884年(明治17年)12月、秋田県御用掛、横手警察署武道教師に就任。その後官用簿記学科を卒業し、東京、山形、尾花沢、磐井などの裁判所書記を歴任。
1904年(明治37年)、岩手県警察部武道教師、盛岡高等農林学校講師、一関中学校講師に就任。このころ剣道基本教授法(集団教授法)を創案し、全国に公開した。
1907年(明治40年)、岩手から秋田に戻り、秋田県警察部、秋田中学校、秋田師範学校、秋田鉱山専門学校で剣道を教授。
1912年(明治45年)、長男秀治が創立した秋田女子技芸学校で薙刀を教授。
晩年
[編集]1925年(大正14年)、大日本武徳会から槍術範士号を授与、翌1926年(大正15年)には剣道範士号を授与された。秋田県で初めての範士号受有者となった。また、二道で範士号を授与された例は大分県の上田光重(剣道、柔道)、東京府の中山博道(剣道、居合術)に続いて3例目であった。
晩年に失明したが、剣道では視力のある者のごとく稽古していたという。死因は胃がんであった。