下河辺長流
下河辺 長流(しもこうべ ちょうりゅう / ながる、寛永4年(1627年)? - 貞享3年6月3日(1686年7月22日)[1])は、江戸時代前期の歌人・和学者。姓は片桐氏の家臣小崎氏であるが、母方の姓である下河辺氏を名乗る[1]。名は共平[1]。通称は彦六[1]。別号は長龍、吟叟居。享年は60歳説、62歳説、63歳説の3つの説がある[1]。大和国立田の生まれとも、宇多の生まれともいう[1]。
少年時代は遊猟に熱中したが、叔父の諫めによって歌学に専心する[1]。1647年(正保4年)木下長嘯子に私淑し[1]、1650年(慶安3年)俳諧連歌の祖西山宗因に連歌を学ぶ[1]。1655年(承応4年)頃から三条西家に青侍として仕え[1]、6年後に『万葉集』の書写が許され[1]、さらに8年をかけて書写を終えた[1]。書写のかたわら『歌仙抄』『万葉集名寄』『万葉集管見』などの注釈書を残した[1]。三条西家を辞した後、1670年(寛文10年)に『林葉累塵集(りんようるいじんしゅう)』20巻を刊行した[1]。この作品は、最初の地下(じげ=一般庶民)の歌人による撰集である[要出典]。1678年(延宝6年)『林葉累塵集』の続編とも言える『萍水和歌集』20巻を刊行[1]。その後、徳川光圀から『万葉集』の注釈を依頼されたが[1]、病気のため没する。『万葉集』の注釈は、交流のあった契沖に引き継がれた[1]。戸田茂睡とともに江戸時代初期における国学の先駆者となった[要出典]。大正4年(1915年)、正五位を追贈された[2]。
上記のほか、注釈書に『万葉集鈔』『百人一首三奥抄』、歌学書に『枕詞燭明抄』『続歌林良材抄』がある[1]。没後、契沖が編集した歌集『晩花和歌集』がある[1]。