下田日記 (川路聖謨)
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『下田日記』は、川路聖謨(かわじとしあきら)による、嘉永7年(1854年)から安政2年(1855年)にかけて3度伊豆国(現・静岡県)下田に滞在(江戸往復の道中および、戸田(現・沼津市)への出張を含む)したときの日記である。
1回目の下田滞在中に、ロシア帝国のエフィム・プチャーチンとの間に1855年の日露和親条約が結ばれた。
内容
[編集]第1回下田日記
[編集]嘉永7年
[編集]※日付は旧暦。11月13日からはグレゴリオ暦の1855年となる。
- 10月15日 (プチャーチンが下田に来航)
- 10月17日 下田行きを命じられる。
- 10月18日 江戸発
- 10月21日 下田着
- 10月23日 肥前守筒井政憲が下田着。
- 11月 3日 玉泉寺 (下田市)で第1回条約交渉。(通訳は森山栄之助。)
- 11月 4日 安政東海地震。津波でプチャーチンの乗るディアナ号が大破。
- 11月13日 玉泉寺で第2回交渉 (最初の6ヶ条を大筋合意)
- 11月14日 玉泉寺で第3回交渉 第8条領事裁判権、第9条最恵国待遇を合意。
- 11月24日 ディアナ号の修理場所として戸田を提案。
- 11月27日 (安政元年に改元)
- 12月 1日 ディアナ号が27日に現・富士市沿岸で座礁したと連絡が来る。
- 12月 4日 ディアナ号が2日に現・沼津市沖で沈没したと連絡が来る。
- 12月 7日 (代替の船を戸田で作ることを決定。取締役は江川英龍)
- 12月10日 米人アダムス、日米和親条約批准書交換のため来日、下田着。
- 12月14日 長楽寺で第4回交渉 (第2条で得撫島と択捉島の間を国境とした)
- 12月15日 長楽寺で第5回交渉 条約案がまとまった。
- 12月21日 長楽寺で日露和親条約調印。かな文、漢文、オランダ語、ロシア語からなる。
- 12月28日 下田発
- 12月30日 韮山で江川英龍の子英敏と面会。英龍の病状を聞く。(英龍は翌年1月16日江戸で死去。)
安政2年
[編集]- 1月3日 江戸着
第2回下田日記
[編集]- 2月12日 江戸発
- 2月18日 下田着
- 2月23日 戸田着 以後第6条(領事官駐在)撤回についてプチャーチンと再交渉するも失敗。
(この頃プチャーチン帰国のための代替船、戸田号が完成。)
- 3月 6日 戸田発
- 3月10日 下田発
- 3月13日 江戸着
第3回下田日記
[編集]- 3月20日 江戸発
- 3月21日 すでに18日にプチャーチンが戸田号でロシアへ向け出発したことを知る。
- 3月24日 下田取締掛として下田着
- 4月23日 下田発
- 4月29日 江戸着
底本
[編集]川路自筆の日記が宮内庁書陵部にある。1930年(昭和5年)に川路家から贈与されたもの。
文献
[編集]川路聖謨『長崎日記・下田日記』藤井貞文・川田貞夫校注 平凡社東洋文庫124 初版1968年