中井久包
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 綱家 |
官位 | 駿河守 |
主君 | 尼子晴久→義久 |
氏族 | 中井氏 |
子 | 久家 |
中井 久包(なかい ひさかね)は、戦国時代の武将。尼子氏の家臣。尼子氏の筆頭家老であり、奉行衆。
略歴
[編集]出雲国の戦国大名・尼子氏に仕えた。尼子詮久(後の晴久)の守役を務めた。
天文9年(1540年)、主君・晴久が安芸国国人・毛利元就の居城である吉田郡山城へと侵攻するのに対し、久包も子・久家と共に従軍する。しかしこの戦いで大敗北し、久包自身も命からがら逃亡した。
永禄元年(1558年)、石見小笠原氏当主・小笠原長雄の守備する温湯城が毛利氏の攻撃を受けたため、晴久自ら兵を率いて出陣を決行すると、久包もこれに加わり出陣した。しかし、雨により増水した江の川を軍勢は渡れず、永禄2年(1559年)8月には長雄が降伏したため救援は失敗に終わる。
永禄6年(1563年)、毛利氏の出雲侵攻により、白鹿城・熊野城が陥落。永禄8年(1565年)、遂に月山富田城へと毛利氏が総攻撃を開始。これに対して久包は尼子義久の直属軍に属し、頑強に抵抗するが、永禄9年(1566年)に遂に月山富田城は開城し、降伏。
その後、伯耆国法勝寺にて病死した。