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中原猶介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
なかはらなおすけ

中原猶介
中原猶介
生誕 (1832-05-08) 1832年5月8日
日本の旗 薩摩国鹿児島近在荒田村
(現:鹿児島県鹿児島市上之園町
死没 (1868-09-22) 1868年9月22日(36歳没)
日本の旗 越後国長岡[1]
墓地 日本の旗 鹿児島県鹿児島市郡元町
(郡元墓地)
職業 蘭学者科学者兵学者
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中原 猶介(なかはら なおすけ、天保3年4月8日1832年5月8日) – 慶応4年8月7日1868年9月22日))は、日本武士薩摩藩士)、蘭学者科学者兵学者。名は尚勇[2]、号は鉄心斎[2]。通称は猶介[2]

来歴・人物

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中原猶介翁宅址碑(表面)
中原猶介翁宅址碑(裏面)

文献によっては「猶介」に「ゆうすけ」とルビを振っているものもあるが、他に「尚介」の表記も散見されるため、「なおすけ」の読みが正しいとみられる。

天保3年(1832年)4月8日、現在の鹿児島市上之園町(の一部、地番整理前は上荒田町に属した)生まれ。幼少より蘭学や舎密学(せいみがく)に熱中し、嘉永2年(1849年)から3年間、長崎へ出向く機会を得てオランダ人から蘭学を習得した[2]。1851年(嘉永4年)島津斉彬に見出され[3]集成館事業や薩摩藩水軍増兵、軍艦建造、反射炉建設の職にあたり、近代海軍の礎を築いた[2]。また、薩英戦争に備えて日本初の機械水雷を開発したり、斉彬の命により薩摩切子の着色を研究し、紅色薩摩切子の製作に成功するなど、鹿児島県や日本の近代技術の面で大きな功績を残した[2]。この頃、江戸で学ぶように命じられ、安井息軒のもとで漢学を学んだり、杉田成卿について蘭学を学んだりした[3]

斉彬の死後は江戸に再留学[2]江川英龍のもとで学問を習得し、1862年(文久元年)塾頭に就任[3]、後進育成に当たった。息軒門下の頃、偶然に薩摩藩の蒸気軍艦が品川へ入港、息軒は猶介の案内にて艦内を一巡した。猶介は、その軍艦は自分が建造に携わったことを、師である息軒に一言も語らなかったが、息軒は後日その事実を知り、太息して猶介の人となりに膝を打ったという。

元治元年(1861年)軍賦役となり[2]禁門の変において大砲隊長として活躍した[2]。慶応2年(1866年)の長州再征伐の際は、長崎にて長州藩の軍備品購入の斡旋をした。慶応2年(1866年)、イギリス公使の薩摩藩訪問時には接待役を務め、実弾演習を指揮し披露した[3]

慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは一番砲隊長として出陣する[2]。同年3月に新政府側の海軍参謀に任命されたが、病のため一時帰郷。同年6月に再出征、7月の越後長岡城の戦いに加わり、河井継之助と対陣する。その戦いの最中、右足に銃創を負い、その傷が原因となって、柏崎病院で37年の生涯を閉じた[2]

最期を迎えるに際しては、蘭学や科学に熱中し信仰していたにもかかわらず、天命と知るや、一切の医学的治療や投薬を退けたという。

鹿児島県立甲南高等学校南門に「中原猶介翁宅址碑」がある[3]。大正5年(1916年)、鹿児島市内有志によって建立され、碑文は島津長丸男爵によるもので、中原は同年12月28日には正五位を贈られた[4]。当初は現在の甲南高正門付近にあったが、1930年の甲南高の前身・鹿児島二中時代、校舎鉄筋改築の際に移築したもの。

辞世の句

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  • よしや身は 越路の雪に うづむとも とくる清水に 名をや流さむ

「たとひ身は 越路の雪に 埋むとも 清き流れに 名をや流さん」とする文献もある。

脚注

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  1. ^ 中原猶介 - 公益財団法人 鹿児島観光コンベンション協会 2020年8月12日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 山本博文監修『江戸時代人名控1000』小学館、2024年11月、253頁。ISBN 9784096266076 
  3. ^ a b c d e 中原猶介”. 【公式】鹿児島市の観光・旅行情報サイト|かごしま市観光ナビ. 2024年11月13日閲覧。
  4. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.41

関連文献

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  • 中原尚徳・中原尚臣『贈正五位中原猶介事蹟稿』1929年
  • 鹿児島県立甲南高等学校編『創立五十周年記念誌』1956年
  • 鹿児島県教育委員会編『鹿児島県教育史 上巻』1960年
  • 鹿児島市教育委員会編『鹿児島市の史跡めぐり人物編』1990年2月