コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

中城虎意

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中城 虎意(なかじょう とらい、1880年明治13年)7月13日 - 1952年昭和年27)2月11日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍少将

履歴

[編集]

1880年(明治13年)7月、高知県長岡郡三里村字仁井田(現在の高知市)で生まれた。海南中学を経て、1900年(明治33年)12月、海軍兵学校28期)を卒業し、1902年(明治35年)12月、海軍少尉任官。日露戦争では「浅間分隊長として出征し、日本海海戦に参加。1908年(明治41年)4月から12月まで、海軍大学校乙種学生として学び、さらに海軍砲術学校高等科で学ぶ。

1909年(明治42年)5月、第1潜水艇隊艇長に就任。造船監督官に転じ、1910年(明治43年)12月、海軍少佐に昇進。1911年(明治44年)8月、艦政本部艤装員となり、造船造兵監督官(仏国出張)、艦政本部出仕(1部)などを経て、1915年(大正4年)12月、海軍中佐に進級。1916年(大正5年)4月、潜水艇艤装員に発令され、海軍技術本部員、兼海軍教育本部員、兼海大教官、兼軍務局員などを歴任し、1919年(大正8年)12月、海軍大佐に昇進。

1920年(大正9年)10月、艦政本部員兼海大教官兼教育本部員となり、呉鎮守府付兼呉工廠建造潜水艦艤装員長を経て、1923年(大正12年)10月、海軍潜水学校長心得に就任。1924年(大正13年)12月、海軍少将に進み呉鎮守府付となり、1925年(大正14年)3月、予備役に編入された。

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]1952年(昭和27年)2月、東京都で死去、71歳。

栄典

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」54頁。
  2. ^ 『官報』第5628号「叙任及辞令」1902年4月12日。
  3. ^ 『官報』第6142号「叙任及辞令」1903年12月21日。
  4. ^ 『官報』第6494号「叙任及辞令」1905年2月25日。
  5. ^ 『官報』第8021号「叙任及辞令」1910年3月23日。

参考文献

[編集]
  • 沢翠峰、尾崎吸江共著『良い国良い人(東京に於ける土佐人)』青山書院、1917年(大正6年)
  • 『高知県人名事典』高知市民図書館、1970年
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年