中央杭州飛機製造廠
中央杭州飛機製造廠(ちゅうおうこうしゅうひきせいぞうしょう、英語: Central Aircraft Manufacturing Company、略称: CAMCO、繁体字中国語: 中央杭州飛機製造廠、簡体字中国語: 中央杭州飞机制造厂、略称: 中杭廠)は、1930年代にアメリカの起業家ウィリアム・パウレーによって設立された中華民国の航空機メーカー。中央飛機製造廠や、雲南省の塁允(現在の雷允)移転後には塁允飛機製造廠、または雷允飛機製造廠としても知られている。
歴史
[編集]中央杭州飛機製造廠は1933年より、杭州筧橋空港に隣接する工場において、アメリカ海軍の偵察爆撃機として設計された約100機のホークIIおよびホークIII戦闘機の組立を行い、日中戦争の間、中華民国空軍の背後勢力として機能した。1934年から1937年まで元ボーイング社のエンジニアであった王助が製造責任者を務めた。
1937年から1938年に国民革命軍が沿岸地域を失うと、中杭廠も杭州から撤退した。工場は漢口に再建され、戦闘や爆撃で損傷した軍用機を修理した。また、米陸軍のP-36の輸出型後期モデルのカーチス ホーク75の組み立ても行ったと考えられている。1938年10月に漢口が陥落したとき、中杭廠は衡陽に移動、新たにヴァルティー V-11の製造も行い、中華民国とビルマ国境近くにある塁允の新工場も稼働開始した。 1939年春にビルマ公路が開通、ラングーン(現在のヤンゴン)から山岳地帯のを通して部品が供給された。工場は蔣介石政権の資金供給を受け、多数のホーク75とカーチス・ライト CW-21戦闘機を製造した。
1940年から1941年の冬、ウィリアム・パウレーは後にフライング・タイガースとして知られる「第1アメリカ合衆国義勇軍(AVG)」の募集と供給に関与するようになった[1]。 AVG所属のパイロットは米軍から退役し、中国人の「インストラクター」または「金属加工業労働者」という身分とされた。彼らの表面上の雇用主は中杭廠であり、中杭廠は、ラングーン郊外のミンガラドン飛行場(現在のヤンゴン国際空港)に工場を建設、AVG配備用として中華民国に販売された100機のカーチス P-40戦闘機の組み立てを行った[2]。中杭廠は1942年7月に解散するまで、ラングーンとニューヨークの事務所においてAVGの部隊事務と記録管理サービスも行っていた。
塁允工場はAVGに配属されたP-40の修理を行い、これらの機体はタイやビルマへの作戦に参加したが、1942年春に連合国がビルマから撤退後、塁允工場は日本軍により破壊された。ウィリアム・パウレーはインドのバンガロールに移り、インドのヒンドスタン航空機に協力した。ここでパウレーはインド空軍発展のために人材をバンガロールに集め、インドのハイテク産業育成という新たな道を歩んだ。
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ Baisden. “Chuck Baisden's Story”. The Flying Tigers - American Volunteer Group - Chinese Air Force. 2022年4月29日閲覧。
- ^ Rossi (1998年). “History: The Flying Tigers - American Volunteer Group - Chinese Air Force”. AVG. 2022年4月29日閲覧。
参考文献
[編集]- フライングタイガースの年表
- バード・マーサ。 シェンノート:虎に翼を与える。アラバマ州タスカルーサ:University Alabama Press、2003年。ISBN 0-8173-0322-7ISBN 0-8173-0322-7 。
- フォード・ダニエル。 Flying Tigers:Claire Chennault and His American Volunteers、1941-1942 。ワシントンDC:HarperCollins | Smithsonian Books、2007年。ISBN 0-06-124655-7ISBN 0-06-124655-7 。
- ポリット・マミー。 塁允からの手紙
- ロスホルト・マルコム。中国空域での飛行。自費出版、1984年。ISBN 0-910417-04-0ISBN 0-910417-04-0