中山幸市
中山 幸市 Koichi Nakayama | |
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生誕 |
1900年12月5日 日本 岡山県 |
死没 |
1968年10月27日 (満67歳没) 日本 |
出身校 |
1924年 関西大学専門部商科 1959年 関西大学経済学博士 |
職業 |
関西電話建物 創業社長 日華貿易 社長 太平住宅 創業社長 太平火災 創業社長 太平ビルサービス 創業社長 太平音響 創業社長 太平出版社 創業社長 タイヘイフィルム 創業社長 大阪商業大学教授 |
画像外部リンク | |
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公式写真 | |
person_1_77.jpg - 関西大学公式サイト |
中山 幸市(なかやま こういち、1900年12月5日 - 1968年10月27日)は、日本の実業家・教育者。太平住宅株式会社創業社長で、太平音響株式会社(のちのミノルフォン、現在の徳間ジャパンコミュニケーションズ)ほか10数社の「太平グループ」代表として知られる。
人物
[編集]1921年(大正10年)、大阪の関西大学専門部商科に入学、1924年(大正13年)、同校を卒業する[1]。卒業後、兵庫県神戸市の神戸高等商船学校(現在の神戸大学海事科学部)の実務指導教師となり、夜間の商業練習学校の教諭に転じた。[1]
1930年(昭和5年)、神戸市に関西電話建物を創業、日本電話建物(後の日本電建、現・大東建設)と改称、1933年(昭和8年)、同社を東京に進出させた[1]。1937年(昭和12年)、同社を退社、神戸市に日華貿易を創業した[1]。1942年(昭和17年)、日本電話建物に復帰するが、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦末期に再び退社した。[1]
戦後、1950年(昭和25年)、太平住宅を創業、社長に就任する。同社は、3割の頭金のみで家を建てる方式を確立し[1]、日本電建、殖産住宅相互と並ぶ「割賦三社」と呼ばれた。1953年(昭和28年)、太平火災を創業、社長に就任する。[1]
1956年(昭和31年)、母校の関西大学法人評議員に選出され、連続4期を務めた[1]。1959年(昭和34年)、関西大学経済学博士の学位を論文により取得[1]。のちに、大阪商業大学教授に就任した。[2]
1960年(昭和35年)10月1日、太平ビルサービスを創業、社長に就任する。1962年(昭和37年)以降、太平観光(1963年創業)、太平音響(のちのミノルフォン、現在の徳間ジャパンコミュニケーションズ、1965年創業)、太平出版社(1965年創業)、タイヘイフィルム(1965年創業)等の10数社にもおよぶ関連会社を創業し、「太平グループ」を築いた[1]。なかでも太平音響は作曲家の遠藤実を専務取締役に迎え、「ミノルフォン」のレーベル名で知られた。
1968年(昭和43年)10月27日、死去した。満67歳没。『中山幸市代表逝去』という16ミリ映画が撮られ、現在同作の版権は徳間書店が管理している。[3]
ビブリオグラフィ
[編集]- 『火災に因る災害補償制度』、成文堂、1959年
- 『現代日本の百人』、太平出版、1968年
- 『私の履歴書 経済人 10』、共著野村与曽市・三島海雲・植村甲午郎・堀江薫雄・岡崎嘉平太、日本経済新聞社、1980年 / 1985年 ISBN 4532030609
脚注
[編集]外部リンク
[編集]- 中山幸市 - コトバンク
- 校友・評議員 中山幸市 - 関西大学