中川久賢
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 延享2年9月13日(1745年10月8日) |
死没 | 明和2年4月20日(1765年6月8日) |
別名 | 千助[1] |
戒名 | 大旨院殿一音善説居士[2] |
墓所 | 東京都港区愛宕の青松寺 |
藩 | 豊後岡藩 |
氏族 | 中川氏 |
父母 | 中川久貞 |
兄弟 | 久賢、久徳、水野勝剛、松平忠明、的丸、岩、貞、巻、充 |
中川 久賢(なかがわ ひさかた)は、江戸時代中期の豊後国岡藩8代藩主である中川久貞の庶長子。病のために継嗣とはされず、父に先立った。
生涯
[編集]延享2年(1745年)9月13日[2][3]、8代藩主・中川久貞の長男として[2]、岡城で誕生した[2]。母は側室の北条氏[2]。幼名は千助[2]。
しかし出生時より虚弱で、幼少時より眼疾があった[2]。このため、久賢が出生したことは幕府に届けられなかった[2]。久賢は寛延4年(1751年)に上方で療養することとし[4]、岡を出て伏見屋敷に移った[2]。高名な眼科医の診察を仰いだが、その功なく視力を失ってしまった[2]。
父による追悼文によれば、久賢は聡明で温柔な人物で[2]、俳諧・連句や楽器をたしなみ能を愛好する才人であった[2]。眼病のために書物を学んだことがないにもかかわらず、文字の形を指で描いて示すという出来事もあったという[2]。
宝暦11年(1761年)より江戸に移り、芝屋敷に滞在した[4]。明和2年(1765年)4月20日[1][2]、江戸において[2]21歳で死去した[1][2]。貝塚青松寺(現在の東京都港区愛宕)に葬られた[2]。
久賢が死去すると、岡藩ははじめて久賢が出生していたことを幕府に届け出た[2]。
久賢死後の明和5年(1768年)2月4日、弟の三郎(のち中川久徳)が嫡子として幕府に届け出られた[3]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第二百六十
- 『寛政重修諸家譜 第二輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082719/204
- 「中川氏御年譜」
- 「岡の母・虎姫の会」でデジタルテキスト化と紹介を行っている。